【独占手記】日本ボクシング連盟会長 山根明
(週刊新潮2018年8月16・23日夏季特大号 2018/08/08)
(略)渦中の人、日本ボクシング連盟の山根明会長が本誌の取材に応じたのは8月5日。場所は大阪市内の自宅で、妻の智巳さん(51)も同席した。ホワイトグレーのスーツにティアドロップのサングラスという格好の山根会長は身振り手振りを交えながら、自らの半生を初めて明かしたのだった。
僕の母親は韓国人で釜山出身なんですけど、神戸で育って、神戸で女学校まで行ってます。お嬢さんでしたからね。で、日本で僕を産んだのですが、終戦の後、事情があって、父親を日本に残して、母親と一緒に釜山に渡ることになった。
でも、6歳の時に離れたもんだから、毎日、親父が恋しくて恋しくて。だから10歳の時に不法入国、密航した。魚取る小さなポンポン船にお金渡してね。でも捕まってしまって大村収容所に入れられて、釜山に強制送還された。そして、その数カ月後にまた密航して、また捕まってしまうのです。ただ、この2回目の時は、親父の人脈で、大阪の岸和田出身で郵政大臣までした、松田竹千代いう国会議員にお世話になって、保証人になってもらって収容所から出られた。その後は日本にそのまま定住しました。(略)
日本に帰化してから40年近くになります。帰化する時には、ボクシングの関係で知り合った10人ほどの大学の先生に保証人になってもらいました。あと、その時に中山正暉(まさあき)いう衆議院議員の先生にもお世話になった。僕は中山先生のボディーガードも長いことしてたんですよ。推薦状などの帰化の書類は中山先生の秘書の原田さんが法務局に出してくれて、それでオーケーになりました。
梁石目の『血と骨』もかくやという人生はそのようにして始まったわけだが、彼の帰化に協力したという当の中山正暉元代議士は、「原田という秘書は確かにおりましたけれど、いろんな方が来られたものですから、ちょっと分からないですね……」
ここで改めて振り返っておくと、山根会長が世間の耳目を一身に集める存在となったきっかけは、7月27日、「日本ボクシングを再興する会」を名乗る集団が、日本オリンピック委員会(JOC)などに1通の告発状を提出したことだ。告発人に名を連ねたのは、各都道府県のアマチュアボクシング連盟幹部ら総勢333名。告発事実は、「アスリート助成金の不正流用の教唆及び隠蔽」「試合用グローブ等の不透明な独占販売」「公式試合における組織的な審判不正」など、十数項目にも及んだ。
「奈良判定」や「おもてなしリスト」についてワイドショーが連日取り上げる事態となる中、現役の世界チャンピオンまでもが〝参戦〟。ロンドン五輪男子ボクシングミドル級金メダリストでWBA世界同級王者の村田諒太(32)がフェイスブックにこう記したのだ。
〈そろそろ潔く辞めましょう、悪しき古き人間達、もうそういう時代じゃありません〉
ちなみに、村田のプロ転向に最後まで抵抗したのが山根会長。ロンドン五輪の決勝戦の際、山根会長の息子で連盟副会長の昌守氏(53)が村田のセコンドに急遽入ることになった背景には山根会長の命令があった、とも報じられた。(略)
山根会長が連盟の会長に就任したのは2011年である。連盟に関わるようになったのは1976年頃だったという。それでは一体、彼はどのような人生を歩んだ後に連盟に関わるようになったのか。山根会長がその「空白期間」について詳細に明かすのは、今回が初めてだ。
ボクシングとの関わりは、そもそも、親父がボクサー上がりですからね。親父は戦後、大阪の堺市のボクシングジムのオーナーをやっていまして、僕は10歳の時に密航で日本に戻って、12歳から本格的にボクシングを始めました。
結婚歴は、籍を入れてないのも含めると4回。最初の嫁さんは今里の塗装会社の娘さんだった。金融とか不動産とかも扱う会社のお嬢さんだったね。息子の昌守はこの最初の奥さんとの間にできた子供です。23歳の時から同棲して、25歳で結婚して6年間嫁さんの実家で暮らしてから離婚しました。その期間は、嫁さんの実家の塗装会社の工場で働いていたのですが、その後は、ずっとボクシングボクシングで、いつも奥さんに面倒を見てもらっていた。(略)
2番目の奥さんには、もう、迷惑どころの騒ぎじゃないくらい迷惑かけましたね、ボクシングで。帰化したのもこの奥さんの時で、今、僕が名乗っている山根という姓はこの奥さんの姓なのです。最初の奥さんと離婚して家出た時、息子はまだ5歳でね。行くところがないので、6カ月間、息子と2人で車の中で寝起きしてました。それから、後に2番目の奥さんになる彼女のアパートに行って、無理を言って息子と一緒に寝かしてもらうようになった。
2番目の奥さんとは31歳の頃に結婚して、20年近く一緒におりましたかね。結婚してから、彼女は、大阪の西中島のマンションの1階で喫茶店を始めました。ただ、僕があんまりにも金持ち出すんで、途中からはスナックもやり出した。
とにかく、僕が海外遠征するたびに金を持ち出すもんやさかい、ある時、「ボクシングをやめてくれ」と言われてね。「私も年取ったら生活していかんならんから」って。そしたら息子がね、「親父に道楽させてくれ。年取ったら俺が全部面倒見るから。親父の思い通りにさせてやってくれ」と言ってくれてね。でも、そんなやり取りを十数年も続けていたある時、海外から帰ってきたら店も荷物もなくなってて、本人も行方不明になってしまった。
3番目の奥さんとは籍は入れませんでしたが、20年くらいは一緒に住みましたかね。ただ、その間は息子からお金を貰ってボクシング関係をしていました。アマチュアボクシングは息子なしではできなかった。サラ金からの借金も2億円くらいありましたけど、息子が全部整理してくれました。
山根家の関係者が言う。
「1997年頃から現在までの約20年間、山根会長の金銭面などの面倒を見てきたのは、息子の昌守氏です。彼は17歳の時に家を出て、20代で自動車販売会社を立ち上げて成功し、金があった。その彼が電気、ガス、水道はもちろん、毎月10万円を山根会長に渡し、奥さんにも、その都度、数十万円を出してあげたりしていた。昌守氏は親の七光で連盟の副会長をやっているように報道されていますが実態は逆で、息子のほうが父親の面倒を見てきたのです」
2番目の奥さんが出奔して途方にくれていた山根会長に大阪・十三(じゅうそう)のマンションを買い与えて住まわせたのも昌守氏で、「父親が連盟の会長に就任した後は、2000万円で十三に一軒家を建ててあげ、700万円のロレックスや、同じく700万円のマイクロバスの他、ベンツもプレゼントしている。ただ、山根会長の4番目の奥さんは今里新地で韓国クラブを経営していて金があるため、昌守氏に金を無心することはない」(同)(略)
(略)今回、僕がテレビに出演したのは、脅迫されたから、というのは先程触れたけど、脅迫の電話は今の奥さんが経営しているお店のチーママにかかってきた。「山根に言っとけ、お前、山根に許さん言っとけ」と。
脅迫してきた森田組元組長と出会ったのは僕が19歳くらいの時やったと思います。僕は若い時分、結構ヤンチャでしたから、大阪の玉造(たまつくり)の商店街で1人で6人相手に殴り合いのケンカをしている時、仲裁に入ってくれた人がいてね。その人に森田を紹介されたんですよ。
山口組の〝殺しの軍団〟と恐れられた「柳川組」の柳川次郎組長にお世話になったのも、まだ僕が20歳になる前でしたね。大阪の天王寺区の小橋(おばせ)いうところの公園で大人2人を相手にケンカしてる時にたまたま柳川さんが通りかかって、「こらぁーっ、お前らなんや、大人が子供相手に2対1でケンカするんか」って言って助けてもらった。その後、人に頼まれて、ボクシング連盟の奈良の組織作りに関わるようになった時、柳川組の関係者が入り込んでいることが分かった。柳川次郎さんにお願いしたら、その人は辞めてくれました。
だいたい、僕のヤクザ関係ばかり批判されて大悪人にされてますけど、告発者側の裏にいる人物もヤクザと深い関わりを持っていますよ。澤谷廣典(ひろのり)いう男で、去年まで近畿大学ボクシング部の総監督を務めとったんですが、コーチを相手に暴力事件を起こしたんで僕が辞めさせました。それで逆恨みして今回の告発の絵図を描いとるんです。この男は山健組の傘下組織の組員みたいなもんで、指はないし、刺青も入っとる。2006年には金銭トラブルの相手を監禁したとして逮捕されていますよ。
当の澤谷氏に事実関係を確認したところ、山健組の傘下組織に出入りしていたこと、小指が欠損していること、「タトゥー程度」の刺青があること、そして、監禁事件で逮捕された事実とコーチへの暴力行為も認めた。
告発する側とされる側が互いの過去を暴露し合う――。今回の騒動には権力闘争の側面も透けて見えるのだ。(略)
山根明「悪の履歴書」
(週刊文春2018年8月16日・23日夏の特大号 2018/08/08)
「元々、私自身は、(韓国の)釜山からの不法入国、密航者ですね。十歳の時、漁船、いわゆるポンポン船で、三十名ほどの密航者と来ました。普通は二十四時間ぐらいで日本に着くのに、台風で流され、流されて四、五日かかった。それで九州のどこかの海水浴場についたんです。船を降りると、そこで消防団に捕まった。今でも記憶は鮮明です。福岡の入国管理所に一日泊まって、翌日から長崎の大村の収容所に連れて行かれましてね。そこから釜山に強制送還。その二、三カ月後にまた密航したんですよ」
大阪市生野区の今里新地。旧遊郭の面影を色濃く残し、観光客は足を踏み入れないディープなコリアンタウン。ハングルで店名が書かれた居酒屋やスナックが立ち並ぶなか、韓国クラブ「O」は、その一角にあった。
八月四日深夜十一時、「O」のソファに腰を下ろした日本ボクシング連盟(以下・連盟)の山根明会長(78)は、これまで明かさなかった〝経歴〟について、自ら口を開いた ――。
(略)冒頭の韓国クラブ「O」は、山根氏の四番目にあたる妻が実質的に経営している店だ。山根氏は、タバコを燻らせながら、「人生かけて、命削って話す」と、三時間にわたって自らの半生を滔々と語り続けた。
「僕の生まれは大阪府堺市です。終戦後、六歳で母親と共に韓国の釜山へ疎開しました。母親は神戸出身の韓国人で、女学校まで出てます。疎開の理由はね、親父が情報部の通信の憲兵隊の堺支部の、たぶん隊長をしたんです。秘密機関ですね。終戦後、アメリカ人が日本に来たら、家族に危険が及んではいかんと、韓国へ疎開したんです」
母親、三人のきょうだいとともに韓国で生活を続けていたが、十歳のときに山根氏は単身で日本への密航を企てたという。
「親父が恋しくなりましてね。結局、密航は二回とも捕まりました。でも二回目で、ようやく親父と再会できたんです。当時、大阪に松田竹千代いう大臣まで務めた衆院議員がいたんです。親父と付き合いがありまして、その松田先生に僕の身元引受人になっていただいたおかげで釈放されたんです。ネットで山根は釜山生まれと書かれていますが、それは間違いで、僕の生まれはあくまでも大阪の堺が正解。ただ残りのきょうだいは釜山にいます」
(略)
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山根氏はどのようにしてボクシング指導者の道を歩み始めたのか。本人や周囲の説明によれば、三十代で出会った人物の影響が大きいという。
「関西大学ボクシング部OBの清水義彦先生に山根氏は可愛がられていました。近畿の学校に清水先生が指導に行く際、山根氏がトレーナーとして同行することもあり、それを機にボクシングの世界に深く入り込んでいった」(ボクシング関係者)
大阪商業大学ボクシング部の技術顧問、大阪経済法科大学の監督を十年以上務める一方で、奈良県連の強化も任されたという。
「奈良はボクシング不毛地帯といわれていた。山根氏は県外から有望な選手を続々招き入れるなど、豪腕ぶりを発揮。リオ五輪で日本代表のコーチを務めた樋山茂氏もその一人でした。一方で、ジムや学校に暴力団の介入があった際には、山根氏がA氏の力を借りるなどして、トラブル処理を手がけていました」(同前)
一方で、アマ指導者として、国際的な知名度も高めていった。
「AIBA(国際ボクシング協会)の最高権力者だったパキスタン人のアンワ・チョドレイ会長の夫人が日本人で、山根は彼女に食い込んだ。会長夫人を籠絡し、会長に自分を売り込むと、ついにAIBA常務理事まで上り詰めたのです。国際大会で日本に不利な判定が出た際には異議を申し立て、判定が日本有利に覆ることもありました」(別のボクシング関係者)
山根氏はチョドレイ会長の海外出張の付き添い人を買って出ることもあった。韓国で行なわれたある大会では、驚愕する出来事があったという。
「会長と試合会場に行ったら、(試合結果に納得しない)五、六十名が殴り合いをしていました。メガネは飛ぶし、鼻血が出ていた。会長が、『山根、ケンカ止めさせろ』というので、近くにあったごみ箱で誰彼関係なしにパンパン殴った。すると不思議なことに暴動は収まった」(山根氏)
「世界では『カリスマ・ヤマネ』って呼ばれてます」
マスコミの取材で、山根氏はこう自画自賛するが、満更大げさではないという。チョドレイ会長に重用されAIBAでは常務理事をつとめ、日本の連盟では終身会長として絶大な権力を握ることとなったのだ。(略)
連盟の事はともかく、とりあえず「親が強制連行され、戦後も仕方なく日本にいる」なんてことは言わずに“密航の証言”の一例(議員がかかわっていたことを含め)が増えた事は良かったですね。
連盟の事はともかく、とりあえず「親が強制連行され、戦後も仕方なく日本にいる」なんてことは言わずに“密航の証言”の一例(議員がかかわっていたことを含め)が増えた事は良かったですね。

恐らく、密航よりも大きな悪事を隠していると予想。