(朝日新聞 2022/09/22)
【分かれた軌道 新幹線の日中半世紀 第3回】
「北京・上海高速鉄道を21世紀の両国友好のシンボルとしたい」
「最新技術を全面的に移転するとともに、資金面での協力を検討していく考え」
「合弁会社の設立、技術提携等により中国に最も適した世界最高の高速鉄道システムを共同開発したい」
1999年7月。首相の小渕恵三の訪中にあたって、日本政府が作成した文書の一部だ。極秘・無期限と記されている。
中国の高速鉄道商戦は、日本にとって雪辱戦でもあった。韓国の高速鉄道でフランスに敗れ、中国・三峡ダムでも欧米に全敗していた。大型インフラを受注する商戦は黒星続きだったのだ。
運輸(現国土交通)次官として新幹線商戦の最前線にいた黒野匡彦(80)は振り返る。「日本政府は何をやっているんだというお叱りを浴びていました。中国に技術を渡すなという声はほとんどありませんでした。差が大きく、日本に自信があったからでしょう。中国への売り込みを、もっと頑張れ、と」
別の次官経験者は、官房長官を務めた実力者、野中広務から「中国とリニアの共同開発をできないか」と何度かもちかけられた。リニアの先進性に執着する首相の朱鎔基(チューロンチー)への配慮からだった。
「日本で実用化できていない技術は外国には出せない。開発者のJR東海も中国と協力する気はないと言っている」と断ったが、政官財あげて「新幹線外交」を続けた。
中国は90年代に入って北京―上海間(1310キロ)に高速鉄道を整備する計画に着手した。
自主開発か外国からの技術導入か。
リニアか鉄輪か。
鉄輪であれば、フランスTGVに代表される機関車が客車をひっぱる動力集中型か。新幹線のように複数の車両にモーターを配して走る動力分散型か。
さまざまな問題に揺れ動きながらも、実現に向けてじわじわと歩を進めていた。
ライバルとなるドイツは首相のシュレーダー、フランスは大統領のシラクが自らトップセールスに乗り出していた。
日本も態勢を強化しようと、97年にJRや関連企業が一体となった「日中鉄道友好推進協議会」を結成。仕掛け人は日本財団会長の笹川陽平(83)だ。
笹川は首相の朱や上海市トップだった黄菊(ホワンチュイ)らに会って、直接売り込んだ。
98年には元首相の竹下登を名誉会長、元経済団体連合会会長の平岩外四を最高顧問とする訪中団を仕立た。中国共産党の指導層が執務する「中南海」に赴き、朱に会った。運輸次官の黒野はもちろん、のちに新幹線ビジネスに批判的な立場に転じるJR東海社長だった葛西敬之の姿もあった。
笹川は語る。「鉄道に限らず、日本のODAによる貢献は中国の人々に知られていなかった。日中友好にとって、新幹線のようなシンボリックなものが必要と考えました。我々の熱意と政官財オールジャパンの姿勢は竹下元首相らとの訪中を経てようやく伝わったと思います」
協議会の活動に7億円超の資金を投じた。中国の技術者を数百人規模で日本に招いて研修した。
来日した国家主席江沢民(チアンツオーミン)は新幹線に、首相朱はリニアに試乗した。運輸省幹部が付き添い、新幹線の良さを売り込んだ。国鉄最後の技師長だった岡田宏も「動力分散方式」の良さを幾度も訴えた。
ところが、中国側は「ヘンハオ(すばらしい)」(江)とは言うものの、「日本に任せる」とは言わない。「日本の関心は承知している」(朱)と言うばかりだ。
2000年前後に北京の日本大使館にいた外交官は言う。「政治・外交的に考えれば、中国が特定の一カ国に、国家の基幹路線である北京―上海を任せるわけがないと感じていました。しかし、国鉄時代からの長い交流もあって、日本側は技術者を中心に新幹線に自信を持っていた」(敬称略)(編集委員・吉岡桂子)
(朝日新聞 2022/09/23)
【分かれた軌道 新幹線の日中半世紀 第4回】
「お帰りください。あなた方に中国のパートナーはいません」
ドイツ・シーメンスの担当者に対して、中国鉄道省の関係者の声が響いた。2004年7月、あるホテルの一室で在来線を高速化するための車両の入札があった。
川崎重工業など日本連合が中国南車(現中国中車)系の四方機車車両(山東省青島市)、カナダのボンバルディアも南車系と、フランスのアルストムは中国北車(現中国中車)系の長春軌道客車(吉林省長春市)と組んで受注した。
中国は技術移転を前提に、外資単独の入札を許さなかった。中国企業と組むことを命じた。
シーメンスは相手を与えられなかったのだ。日本企業の幹部によれば、「高飛車な条件を要求したからと言われている」。
北京―上海から始まった中国の高速鉄道計画は、21世紀に入って対象を全国に拡大した。まずは最高時速160キロの在来線を200キロまで引きあげることから着手した。
川重など日本連合は、東北新幹線E2系「はやて」をベースにした車両480両を受注した。ただ、完成車の輸出は3編成(24両)だけ。大半は中国の工場で生産される契約だった。
翌05年、新しく整備する鉄路に投入される時速300キロ級の車両も決まった。日本の川重とシーメンスが各480両ずつ受注した。
もっとも、300キロ級については日本からの輸出はない。
全て現地生産だ。
川崎重工業会長の金花芳則(68)は言う。
「E2系『はやて』は日本で時速275キロの運行実績がある。中国が要求する設計速度を満足する能力を有していたので、若干の変更を加えて提案しました。200キロ案件を通じて技術移転を進めていたので、300キロ級は最初から中国で製造できたのです」
走行試験にも立ち会い、部品は指定のものを使っているかを確認した。保守や操作の訓練も実施し、安全確保に努めたという。
10年超の商戦は、ふたを開けてみれば、日本、フランス、ドイツ、カナダの企業がそろって受注した。
中国メディアは「日独仏三国志」とはやした。確信犯だ。中国は巧みにてんびんにかけ、世界を代表する車両メーカーから技術を吸い上げた。
「負けではないが、勝ちとも言えない」。総取りの夢が破れた日本の大手商社の北京駐在員は当時、浮かぬ顔だった。
ただ、日中関係は04~05年にかけて「政冷」の時代。首相の小泉純一郎による靖国神社参拝や日本の国連安全保障理事会常任理事国入りを目指す動きに反対して、中国各地で反日デモの嵐が吹き荒れていた。
そんな中でも「新幹線」は生き抜いたと言えなくもない。
そんな中でも「新幹線」は生き抜いたと言えなくもない。
「中国は現実的。世界最高の技術を集めたいという国家としての大方針がある以上、新幹線は外せなかったのでしょう。政治環境がどうであれ、それだけ日本の技術がほしかったわけですよ。欧州で主力だった機関車方式ではなく、新幹線と同じ動力分散方式で各社に受注したことは、日本の技術を評価していた証しです」
04年から05年にかけて国土交通次官を務め、商戦にかかわった岩村敬(さとし)(78)の分析だ。
「大連―ハルビンは日本に丸ごと任せたい」
中国鉄道省運輸局長で技術系の大物、張曙光が公使だった西宮伸一を呼び出し、もちかけてきたことがある。06年11月のことだ。くしくも、戦中は、南満州鉄道(満鉄)が特急あじあを走らせた路線だった。
日本側は断った。
新幹線は零下40度にもなる極寒の地を運行したことはない。未踏の領域に、技術者が尻込みした。日本大使館の元書記官によれば、欧州勢と「てんびん」にかけられ続けたことへの不満や日中戦争の歴史を懸念する声もあったという。
今となってはどこまで本気の提案だったか定かではない。
ただ、中国の技術者が日本に信頼を寄せていたことは確かだ。
歴史や政治・外交が、技術やビジネスとからみあいながら、中国の高速鉄道商戦は幕を下ろそうとしていた。(敬称略)(編集委員・吉岡桂子)
【分かれた軌道 新幹線の日中半世紀 第5回】

▲中国・浙江省温州で起きた高速鉄道脱線事故の現場では、一夜明けると先頭車両がそばの畑の穴に埋められた=2011年7月24日、浙江省温州市、奥寺淳撮影

▲後ろから追突し、脱線の原因となった列車の先頭車両=2011年7月24日、浙江省温州市、奥寺淳撮影
現場にいち早く駆けつけ、その様子を報じた朝日新聞上海支局長(当時)の奥寺淳(51)は振り返る。
(朝日新聞 2022/09/24)
【分かれた軌道 新幹線の日中半世紀 第5回】
北京五輪の開幕を1週間後に控えた2008年8月1日。北京―天津間120キロを30分で結ぶ高速鉄道が開業した。
五輪を意識した日程は、東京五輪にあわせて走り始めた東海道新幹線を思い出させた。
胡錦濤(フーチンタオ)政権の政治スローガンを背負う「和諧号」の最高時速は350キロ。中国鉄道省によれば当時、「世界最速の営業運転」だった。着工からわずか2年、試運転の期間は1カ月。まさに「超高速」だ。
川崎重工業会長だった大橋忠晴(77)が中国の技術者に語った言葉が残る。
「焦らないように。まずは8年かけて時速200キロ級の技術を掌握し、次の8年で時速300キロ級の技術を掌握する」(中国国営新華社通信)
段階を踏んで技術を進化させていく日本らしい考え方だ。
だが、中国は違った。
北京―天津の開業から5年。和諧号は1万1千キロまでネットワークを広げた。巨額の債務を膨らませながらも、世界の高速鉄道網の合計をはるかにしのぐようになっていた。
市場と引き換えに日欧を競わせて得た技術について、中国側は「消化、吸収し、自主創造した」(鉄道省)と表現した。
東北新幹線「はやて」、フランスTGVやドイツICEなどの粋を詰めこんだ車両は、すぐに輸出を目指す。
10年暮れ。北京で世界高速鉄道大会が開かれた。鉄道に携わる各国の政府や企業が集うイベントだ。国際鉄道連合(本部・パリ)が主催し、92年に始めた。欧州以外での開催は中国が初めてだった。
「中国の高速鉄道の技術は世界一流の水準に達した」
副首相の張徳江(チャントーチアン)は開幕式で自信を隠さなかった。
「中国は世界の鉄道事業に進出する」
大会にあわせて、新型車両が翌年開業する予定の北京―上海間で試験走行した。最高時速486・1キロを記録する。
「栄光きわまりないひととき」鉄道省系機関紙人民鉄道は報じた。開発したのは、日本の川重が長く支援してきた青島四方(現中国中車)だ。
この年、中国の国内総生産(GDP)は日本を抜いて世界第2位になる。
鉄道部門も鼻高々だった。鉄道省報道官、王勇平は記者会見で言い切った。
「中国の多くの技術は新幹線をはるかに上回る。日本メディアが盗用と言うのは、率直に言って滑稽だ」
だが、中国の発展の象徴のように「大躍進」を続けた高速鉄道を取り巻く環境は、暗転する。
11年2月に鉄道相の劉志軍、続いて技術系トップだった張曙光が失脚する。巨額の賄賂を得ていた疑いだった。
4月。最高時速380キロを目指して開発した車両について、営業運行では300キロまで減速する方針に転換した。
そして、北京―上海間の開業から約1カ月が過ぎた7月23日。
あの事故が起きる。
浙江省温州で高速鉄道の車両どうしが衝突、当局の発表で200人を超す死傷者を出したのだ。さらに、当局が脱線した先頭車両を埋めたことが、日本社会に衝撃を与えた。

▲中国・浙江省温州で起きた高速鉄道脱線事故の現場では、一夜明けると先頭車両がそばの畑の穴に埋められた=2011年7月24日、浙江省温州市、奥寺淳撮影

▲後ろから追突し、脱線の原因となった列車の先頭車両=2011年7月24日、浙江省温州市、奥寺淳撮影
現場にいち早く駆けつけ、その様子を報じた朝日新聞上海支局長(当時)の奥寺淳(51)は振り返る。
「事故現場に着いたら、ショベルカーがそばに穴を掘っていて、運転席や大切な機器が詰まった先頭車両を壊して埋めていた。なぜ車両を埋めるのかと聞いたら、『撤去できない物を埋めるのは自然なことだ』と鉄道関係者に言われた。詳しい事故原因も発表されないまま1日半で営業運転が再開されるなど、あの事故は中国の鉄道当局の危うい体質をさらけ出したように感じた」
多くの死傷者を出した事故にもかかわらず、日本のネット上に同情の声は乏しかった。事故そのもの以上に、埋める「危うさ」が不信を増幅した。「ぱくり新幹線」と揶揄(やゆ)する声が飛び交った。
新幹線はいつのまにか、冷え冷えとした日中関係の象徴に転じていた。(敬称略)(編集委員・吉岡桂子)

通じないとわかったね
specificasia
が
しました