(朝日新聞 2022/09/25)

【分かれた軌道 新幹線の日中半世紀 第6回】

 銀色に赤いラインの高速鉄道車両が9月2日、ジャカルタ近郊の港に到着した。赤はインドネシア国旗を、姿は現地の爬虫(はちゅう)類コモドドラゴンをイメージしたという。

 ただ、どう見ても習近平(シーチンピン)政権の政治スローガンを冠する「復興号」にそっくりだ。

 中国にとって、時速350キロ級の輸出は初めてだ。車両を製造したのは、川崎重工業が長く技術支援した中車青島四方機車車両である。

 座席にはインドネシア伝統の布地バティックを意識した柄があしらわれている。2023年6月に開業する予定のジャカルタ―バンドン間(約142キロ)に投入される。

 東南アジア初の高速鉄道は、中国の手で造られた。

 バリ島で11月に開かれる主要20カ国・地域(G20)首脳会議に合わせて、習と大統領のジョコが試乗する計画がある。異例の3期目に入るとみられる習のアジア外交の晴れ舞台にする演出だ。

 この商戦をめぐっては、日本は中国と激突し、敗れた。

 インドネシアへの新幹線の売り込みに携わった日本政府の幹部は振り返って吐露した。

 「頭に血が上った。はらわたが煮えくりかえる思いだった」

 インドネシア政府にとって日本の怒りは想定以上だった。関係者が「日本との友好関係に変化はない」と釈明に来日したほどだ。

 日本のインドネシアに対する経済協力は1950年代から始まる。戦後賠償に端を発したものだ。冷戦時代は「反共」のとりでと位置づけられた同国は、政治的にも重要な援助先だった。

 高速鉄道の事業化に向けた調査も長く支援してきた。

 だが、ジョコ政権は15年秋、中国を選んだのだ。

 「19年に開業」「インドネシア政府に財政支出を求めない」

 中国が日本を破る切り札にした2点は実のところ、いずれも実現していない。ジョコの改選期に合わせたはずの開業は遅れに遅れ、建設費が膨らんだ。インドネシア政府は逃げ切れず、一部を負担することになった。

 前出の日本政府幹部は言う。

 「それみたことか、と思うね。中国のインフラ整備について、新興国はこうした結果をよく見て次の判断をしてほしい」

 マレー半島を貫く区間でも、日中は競り合った。クアラルンプールとシンガポールを結ぶ路線(350キロ)だ。中国が造る鉄路が南洋に抜けるとあって、日本では安全保障上から警戒する声まで上がった。

 だが、マレーシアで政変が続き、計画は21年、撤回されてしまった。10年以上かけた商戦だったにもかかわらず、大手商社の担当者は、ほっとした表情で言った。

 「コストでは中国にはかなわない。しかも、シンガポールもマレーシアも中国との外交関係も悪くない。なのに、官邸から絶対に負けるなというプレッシャーがきつく、大変でした」

 新幹線商戦は互いのテクノナショナリズム(技術愛国主義)がぶつかりあう。ビジネスにとどまらない意味を持つ。

 国家を象徴するがゆえに、新幹線は正反対の期待を背負わされたこともあった。

 日中の両政府が、タイが計画している高速鉄道を協力して整備する案を両国の企業にもちかけたことがある。ライバルだった相手と手を組め、と。

 18年秋、首相の安倍晋三の訪中にあわせた「目玉」として合意を目指した。政治のご都合主義である。

 日本企業は拒んだ。

 「コストに全く見合わないうえ、政治リスクまである」

 案の定、日中関係は再び冷え込んでいる。

 国交正常化50年の今年、高速鉄道で日中協力を口にする人はいない。(敬称略)(編集委員・吉岡桂子)


(朝日新聞 2022/09/26)

【分かれた軌道 新幹線の日中半世紀 第7回】

 日本が全力でもぎ取った高速鉄道がある。

 インドだ。

 「日印新時代を象徴する旗艦事業」(日本政府)として2015年12月、首脳会談で合意した。インドネシアのジャカルタ―バンドンの高速鉄道を、中国が整備することが決まった約3カ月後だ。

 日本はインドを、台頭する中国に向き合う「同志」であり、自らが提唱する「自由で開かれたインド太平洋」構想に欠かせない戦略的なパートナーとして位置づけている。

 落とすわけにはいかなかった。

◇「嫌ならやめる選択も否定しないが…」 手紙を書いた安倍首相

 商都ムンバイから北上すること、約500キロ。グジャラート州アーメダバードと結ぶ。14年から首相の座に座るモディの地元である。

 東北新幹線「はやぶさ」で知られるE5系が投入される。ヒンドゥー教でおめでたい色とされる赤色に塗り替えられる予定だ。

 モディ「高速鉄道は、インドにとっても政治的に非常に大きな話であるが、今回決定を行った。鉄道関連業界のみならず、社会全体、産業界全体に大きな変化をもたらす」

 安倍晋三「新幹線は、その安全性、正確性という意味において、世界の高速鉄道の中でも群を抜いている。インドの他の高速鉄道路線にも導入されていくことを強く期待」

 情報公開請求で入手した首脳会談の模様だ。黒塗りだらけだが、双方の期待がうかがえる。

 インド政府はもともとフランスに任せる方向で検討していたが、日本がひっくり返した。決め手になったのは、日本政府がインドの意向をくんだ内容で「日印原子力協定」の締結に応じたことに加えて、超低金利で事業費を貸し出す契約にあるとみられている。

 円借款の年利はわずか0・1%、償還期間は50年の破格の優遇条件だ。インドとの交渉にかかわった日本政府の幹部によれば、モディからの提案に首相の安倍が応じたのだという。

 両首脳は電話を含めると通算20回以上、会談した。そのたびに、高速鉄道について話した。ともに現地の着工式に出席し、川崎重工業の工場を見学した。

 新幹線はビジネスを超えて、日印関係を深める象徴としての意味を帯びていく。

 象徴だからこそ、失敗は許されない。

 1・8兆円規模で想定していた事業費は、精査すると3兆円を超えた。インド側が怒って、事業が止まってしまったこともある。

 増額分の負担を日本に求める意見まであった。

 「日本がやりたくてやっている」。そう言い放つインド外交官もいた。

 安倍はモディに対して手紙を書いた。

 「大プロジェクトにはいろいろある。インド側がどうしても嫌ならやめる選択も否定しないが、我々首脳で合意したプロジェクトをともに完成させようではないか。日本が全面的に協力する意思は変わらない」。関係者によれば、という内容だったという。

 日本側は、土木工事をインド企業に任せるなどしてコストを下げる案を示した。

■「日本の強みは何かを考えるべき」

 「インドの地で新幹線が走る日を待ち望んでいる」

 安倍は退任間際の20年9月、電話会談でも念を押さざるを得なかった。

 開業は5年は遅れて28年以降になる見通しだ。

 日本政府でインフラ輸出に長くかかわってきた幹部は言う。

 「日本は、中国と違って返しきれない借金を負わせて『債務のわな』に陥れるようなことはしない。現地の人々の生活に根ざした計画をともに考える。技術を伝えて現地の人材を育てる」

 ただし、00年前後に国際協力機構(JICA)専門家として北京に駐在し、技術指導にあたった大沼富昭(74)は指摘する。

 「鉄道は経験技術です。日本も明治時代以降、欧州から吸収して発展させてきました。中国もその過程を歩み、何万キロも整備し、(広い国土で)トライ・アンド・エラーを繰り返して技術を向上させている。デジタル技術との連動を含めて、ハードでは日本を上回るものがあることは認めざるを得ない。その上で日本の強みは何かを考えるべきです」

 日中の高速鉄道はライバルとして、違う軌道を走り始めた。(敬称略)(編集委員・吉岡桂子)


(朝日新聞 2022/09/27)

【分かれた軌道 新幹線の日中半世紀 第8回】

 新幹線が初めて輸出された先は、台湾だ。日本が50年前、中国と国交を正常化すると同時に断交した相手である。

 2004年5月、神戸港。700T型が南部の高雄港へ向かった。ブルーのラインは南の島らしくオレンジ色に姿を変えていた。

 製造した川崎重工業兵庫工場では事前に、晴れやかな式典で祝った。陸揚げされた高雄では新幹線の先頭車両を荷台に載せた歓迎パレードまであった。式典もせず、中国に向けてひっそりと出港した「はやて」とは対照的だ。

 台湾では、日本は独仏連合と競り合い、逆転勝ちした。

 政治の力が大きく働いた。

 転機は、台湾当局が1997年9月、優先交渉権を独仏連合に与えた直後に訪れた。

 「黒野次官、台湾へ行ってもらえないかな」

 運輸(現国土交通)次官を務めた黒野匡彦(80)は忘れられない。首相だった橋本龍太郎からの電話だ。

 驚いた。

 中国への配慮から高位の官僚の訪問はご法度だったからだ。

 橋本政権で首相補佐官を務め、台湾新幹線にも深くかかわった岡本行夫によれば、総統の李登輝(リートンホイ)の意向を受けたものだった。橋本には、官房長官も務めた台湾に近い梶山静六らから指示が飛んでいた。

 「日本は一部の政治家や企業は熱心だが、政府は来ない。姿勢を示してほしい」。李が不満を述べていたという。台北に駐在していた大手商社の担当者にも側近から伝えられた。

 「日本は課長補佐しか来ない。やる気はあるのか」

 黒野の台湾派遣が、日本政府の巻き返しの号砲となる。

 JR東海も本腰を入れた。当時社長だった葛西敬之は「新幹線は膨大な資金を要する国家事業。安全保障や外交の方向性が一致する相手でなければ、輸出するべきではない」として、中国への輸出には消極的だった。だが、台湾は違った。技術系トップの副社長田中宏昌(83)らと台湾側に熱心に働きかけた。

 99年末。一部は欧州勢に残したものの、車両や信号など中核のシステムは、日本が獲得した。入札直前の台湾大地震や独の高速鉄道事故などで、新幹線が見直された。日本と親しい台湾の財界人の後押しもあった。

 新幹線商戦は、技術や価格だけでなく、外交や国際宣伝力を加味した「知的格闘技」。JR東海の田中はそう、評する。

 開業から15年。台北―高雄(345キロ)を1時間半で結び、人々の生活を支えている。

 問題がないわけではない。

 更新する車両がなかなか決まらないのだ。日本企業が示す価格が高いからだ。

 「日本だけから輸入しているので価格が高止まりしている」。2018年に取材した台湾高速鉄路会長の江耀宗はそう、こぼしていた。

 ただ、台湾の場合、ビジネス上の対立は、その範囲にとどまる。人々の互いの感情や世論を大きく悪化させるものではない。

 台湾東部の花蓮県で21年に起きた脱線事故で約300人もの死傷者が出たとき、日本のネットには乗員や乗客を心配する声が相次いだ。中国浙江省で11年に起きた高速鉄道事故と比べてあまりに異なる反応だった。

 断交から50年。

 日台の人々の気持ちは、それでも近づいている。

 国交を正常化した中国との心の距離は、遠のいている。

 日本から一方的に技術や資金が中国へ流れた時代は、過ぎ去った。

 新幹線を友好の象徴として北京―上海間を走らせようと夢見た20年前が、遠い昔のようだ。友好の呪文は砕け、互いの現実は「象徴」では覆い隠せない。競いながら共存する知恵こそ、求められている。(編集委員・吉岡桂子)