(朝日新聞 2024/05/30)
論説委員・村上太輝夫=国際社説担当
台湾で頼清徳(ライチントー)総統が就任した5月20日、東京では中国の呉江浩大使が日本の識者らを大使館に招いて座談会を開いた。呉大使が台湾問題への日本の関与を強く牽制(けんせい)し、「日本の民衆が火の中に連れ込まれることになる」と発言したことが、波紋を広げている。
台湾で頼清徳(ライチントー)総統が就任した5月20日、東京では中国の呉江浩大使が日本の識者らを大使館に招いて座談会を開いた。呉大使が台湾問題への日本の関与を強く牽制(けんせい)し、「日本の民衆が火の中に連れ込まれることになる」と発言したことが、波紋を広げている。
これは誤訳ではないか――。中国出身で東京在住の研究者が違和感を覚え、私に連絡してくれた。
大使館のサイトに掲載されている中国語版で該当部分を探すと「火坑」と書いてある。もとは仏教用語で焦熱地獄を指すそうだ。日常用語としては、中日大辞典(大修館書店)によれば「境遇の非常に困窮していること」。要するに「苦境」だ。「火の中」は完全な誤訳とまでは言えないにせよ、稚拙な直訳である。
というのも、「火の中」と聞けば穏やかではいられないからだ。90年代に北朝鮮の高官が「戦争が起きればソウルは火の海になる」と脅したことを思い出す人は少なくないのではないか。「火に油を注ぐような訳し方です」と、その研究者は嘆いている。
「台湾有事は日本有事」という、根拠を欠いた言説が取りざたされるが、これに妙な現実味を与えることにもなりかねない。そうこうするうちに、中国軍が台湾を取り囲むように演習を実施した。
実は、呉大使は座談会では流暢(りゅうちょう)な日本語で発言していた。
昨年4月の日本記者クラブでの記者会見でも日本語で「火の中」と言っていて、やはり大使館のサイトには「火坑」とある。
原文が中国語で、それを大使館スタッフが日本語に訳したとみるのが自然だろう。
昨年4月の日本記者クラブでの記者会見でも日本語で「火の中」と言っていて、やはり大使館のサイトには「火坑」とある。
原文が中国語で、それを大使館スタッフが日本語に訳したとみるのが自然だろう。
「火の中」発言は独り歩きをしている。林芳正官房長官が「在京大使の発言としてきわめて不適切」として抗議した。台湾メディアは日本の報道をもとに中国語で「火海」と伝えている。
訳がどうあれ、日本国民を巻き込んで大変なことになるぞ、という警告であることに変わりはない。台湾は中国の内政問題だから口を出すな、というわけだ。
そう言いたいとしても、日本社会の反発を招くやり方は賢明ではない。問題があるとき、けんか腰でことを荒立てるよりも丸くおさめる方へ働きかけるのが外交官の仕事というものだ。ときに火中の栗を拾うことになるかもしれないが。

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