(SBSニュース 韓国語 2016/04/15)

14日夕方、日本,熊本県で発生した強震は400年を堅固に持ちこたえ地域の象徴になった熊本城の土台すら崩しました。

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熊本城は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時、韓半島(朝鮮半島)侵略に参加して宣祖(李氏朝鮮の第14代王)の息子である臨海君と順和君を捕虜として捕らえた日本の武将加藤清正が、自身の領地であったここで1601年から工事を始めて1607年に完成した城です。

1877年に発生した内戦である西南戦争の時、薩摩藩(九州南部地域)の領主西郷隆盛(この程度の知識で書かれた記事です)が率いる軍隊約1万3千人が52日間、熊本城を包囲して攻撃したが陥落させることができませんでした。

当時、城内では3千500人が防御にあたっており、これを契機に熊本城は難攻不落の堅固な城として注目されました。

熊本城を建てる際に韓半島出身の匠人(職人)の技術が活用されたことでも知らされています。

加藤清正を神として祀る加藤神社の名誉宮司の湯田栄弘(ゆたしげひろ)は熊本城を建てる時、当時の才人朝鮮人が優れた技術を提供したと前に明らかにしました。

熊本城は名古屋城、大阪城または姫路城と共に日本3大城に選ばれ、城周辺を取り巻く石垣は国の重要文化財に指定されています。

城の最も中心部に該当する建物である天守閣は西南戦争直前の火災で消失し、1960年に復元されました。

日本当局は1998年から築城400周年である2017年までに熊本城を本来の姿に近づけて復元する作業を推進してきました。

今回の地震で熊本城は石垣約100mが崩れ、天守閣の屋根の瓦などが破損したことが把握されており、このため復元構想に支障が避けられないように見えます。(機械翻訳 若干修正)


(熊本県観光課「熊本県観光サイト なごみ紀行」)

(略)かつて、清正公は朝鮮の役のことがあって、韓国朝鮮の人からは大変嫌われていました。しかし、この10年くらいでずいぶん評価が変わってきました。熊本城築城にあたって当時の在日韓国(朝鮮)人の方たちが大変にすぐれた技術を提供されているのです。清正公は敵であっても人として厚く遇しています。朝鮮から金銀財宝を奪っていません。

 このところ韓国からの観光客の方たちが大変に増えてきました。キムチを作る韓国の人からも喜ばれ、感謝されています。そもそも清正公がトンガラシをかの地に持っていったから現在のキムチがあるというのです。加藤神社は朝鮮人金宦さんを祀っています。この人は朝鮮生れの人ですが、清正公に大変かわいがられた人です。清正公が亡くなると、大変悲しんで、殉死してしまいました。外国人を祀っているお宮は大変に珍しいのですが、これも清正公の遺徳を偲ぶひとつの証しだと思います。

金宦さん:金宦は朝鮮における会計職の役職名。本名は良甫鑑(リャンボカム)ですが周りがそう呼んでいたので名前として呼ばれるようになったそうです。文禄の役の際に捕虜となった宣祖の息子の侍臣。200石で召し抱えられた。


武将ですから戦に役立つと思えば、他藩だろうか他国だろうかその技術を取り入れたでしょうし、↑の金宦氏の例や熊本市中央区に加藤清正が陣取った蔚山から連れてきた人々を住まわせたことにちなむとされる『蔚山町』があることから、文禄・慶長の役をきっかけに朝鮮人が数多く住むことになったことは事実でしょうが、築城に関して、どこにどの程度の影響があったんですかね。(清正流の石垣が朝鮮の技術という主張もあるようです)

記事とは関係ないですが、↓は西南戦争(明治10年・1877年)以前の明治4年頃に撮影された写真。(クリックで別ウィンドウ)

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隔週刊マガジン 名城をゆく(2) 2015年 4/21 号 [雑誌]
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