(ニューシス 韓国語 2017/01/24)

国防部(省に相当)が、6・25韓国動乱(朝鮮戦争)初期に行われた春川戦闘でたてた功績で故シム・イル(沈鎰)少領(少佐に相当)が受けた太極武功勲章は妥当だと結論を下した。シム少領の功績が操作された虚偽という主張が激しく対抗する中で国防部が論議を性急に寝かそうとしたのではないかとの指摘も提起されている。

国防部の『故シム・イル少領の功績確認委員会』は24日、龍山戦争記念館で公聴会を開き、昨年6月に一部メディアが提起したシム少領の功績は作られた神話という趣旨の報道は、公式文書などを通じて検証した結果、事実ではないという結論を下した。

昨年6月、あるメディアはイ・デヨン予備役准将の主張を引用し、6・25韓国動乱当時、シム・イル中尉が肉弾突撃で北朝鮮軍の自走砲の攻撃を防いだというのは虚偽であると報道した。それだけでなく、シム・イル中尉は味方の対戦車砲1門を北朝鮮軍に渡して逃げたとした。

シム・イル中尉の両親を慰めるために善意で功績を操作して勲章をあげ、操作された勲章上申書が政訓資料として使われ、偽りの神話が誕生したというのがイ准将の主張の要旨だ。

これは、『肉弾5勇士』の1人で、かつて教科書に『朝鮮戦争の英雄』と紹介された部分に真っ向から対立する内容で、当時真偽の有無を置いて少なくない論議が起きた。

これに対し、国防部軍事編纂研究所(以下、軍編)はイ准将の主張は事実と異なるという趣旨の報告書を作成し、ハン・ミンク国防部長官と青瓦台(大統領府)に報告した。また、陸軍軍事研究所(以下、軍研)に軍編が作成した結果をメディアを通じてブリーフィングするよう指示したことが分かった。

しかし、軍研は、一方的に軍編が作成した内容を国防部に代わって発表するというのは適切でないと判断し、自主的に確認調査を進めた。その結果、メディアのインタビュー内容が事実と符合した側面が多いと結論を下した。

これに対し、同じ事案をめぐり軍編と軍研の主張が尖鋭に分かれたため、国防部はこれを検証するための委員会の構成を指示した。国防部側専門家3人、陸軍側専門家3人に委員長推薦の1人を含めて計7人で功績確認委員会を設けた。

功績委は、以後、昨年9月から最近まで合計8回にわたり会議を開き、収集資料などをもとに検証を行った。その結果、シム・イル少領の功績は問題になることはないという最終結論を下した。

『肉弾5勇士』の場合、事実を誇張あるいは美化した側面が判断されるが、シム・イル少領の功績全体を否定するには客観的証拠が不足しているというのが功績委の判断である。

功績委は「彼我の公式文書資料を通じて6・25玉山浦戦闘当時、敵自走砲2~3両が破壊されたという事実が確認されたし、この戦闘で敵自走砲の破壊した主体はシム・イル中尉が指揮する小隊と推定される」とし「これを通じてシム・イル中尉の功績を推定することができる」と明らかにした。

それと共に「後日のシム・イル職務解任の有無は確認できず、職務解任の可能性は希薄であると判断される」とし「また、特功組の存在の有無は断定を保留する」と付け加えた。

これと関連し、軍研はシム・イル少領の功績の適正性の可否は継続的な研究と資料の発掘を通じて判断するべきで、功績委の結論は性急であると反発した。

『シム・イル神話』を証言した過去の証言についての批判的検討が不足し、公聴会を通じて強引にシム・イル少領の功績有無を決めるのは不適切だというのが軍研の主張だ。あわせて、功績委の検証基準がどんどん変わり、厳正な資料批判と文献考証を正しく実行しなかったという手続き上の問題も指摘した。

この日の公聴会で軍研側が公開的に反論権の保障を要求したが、功績委はこれを阻み、抗議が激しくなると質疑応答時間の一部を利用して反論機会を提供するなど、進行に一部摩擦が生じたりもした。

一方、シム・イル少領は、1950年6月25日の玉山浦戦闘で対戦車砲を率いて南下する北朝鮮軍のSU-76自走砲に対抗するために5人の特攻隊を編成し、手榴弾とガソリンを入れたサイダー瓶だけで自走砲2両を破壊した。以後、このような功績はアメリカの銀星勲章推薦書と太極武功勲章功績書を通じて確認されたというのが国防部の立場だ。

しかし、イ・デヨン予備役准将がシム・イルは肉弾突撃でなく逃げたと主張をして功績の真偽の有無論議が起きた。これに対し軍研は独自の調査の結果、玉山浦戦闘に投入された自走砲は砲塔がなく、ハッチを開いて手榴弾を入れて破壊したという内容は虚偽とし、国防部の立場と相反する主張をしている。(機械翻訳 若干修正)

 「このように偽りの神話が作られることは、当時は誰も分からなかった。春川戦闘でシム・イル小隊長は肉弾突撃でなく逃げた。私はすぐ上の高地でその状況を見ることができた。衆寡不敵であった。だが、対戦車砲1門を敵に渡して逃げたことは問題になった。彼の中隊長は激怒して『銃殺対象者』として上部に報告した。」

シム・イルは職務解任され、後に閑職である砲兵連絡将校を務めた。国軍が北進したが中共軍の介入で退却する時は、その中にいた。1951年1月26日、彼は他の将校1人、兵3人と共に妙香山の火田民(焼畑農業を行う農民)の穴倉に隠れた。だが、中共軍にすぐに包囲された。彼は兵1人と共に裏口から飛び出して銃に撃たれて亡くなった。その時、28歳であった。他の3人は中共軍の捕虜になった。数日後、このうち将校は監視が疎かな隙に乗じて脱出した。その将校を通じてシム・イルの戦死の事実が確認された。

シム・イルの親は第7連隊を訪ね、「学兵として行った3番目も生死不明だ。共匪(中共のゲリラ)討伐をしていた警察の2番目は不治の病にかかった。長男(シム・イル)まで死んだので、もう末っ子一人だけが残った」と泣いた。

これに後任の連隊長が「勲章を一つ授ける」と約束して帰宅させた
。

副官が「シム・イルは春川戦闘で逃げたし勲章を与えるほどの戦功がない」と報告すると、連隊長は「おい、こいつは『ノモンハン戦闘(1939年)』(日ソ戦)式ですれば良いじゃないか。満州で日本軍が肉弾突撃してソ連軍の戦車の蓋を開けて手榴弾を入れたことだ。息子をこのようにたくさん国に捧げたのに、勲章を作らなくてはならない」と叱り飛ばした。

たとえ操作だが善意が土台になったのである。1951年10月、シム・イルに太極武功勲章が出た。親に勲章を伝達して終わったものと感じた。

ところが、国防部(省に相当)政訓局の将校が偶然に勲章の上申書を見て「すごい英雄を発見した」と国防雑誌に紹介した。

これをシム・イルの陸軍士官学校時代の教官だった大領(大佐に相当)が見て「教官時代に生徒に『ノモンハン戦闘』で精神教育をしたが、シム・イルがそのまま実践した」と広めた。(略)

そのようにして寧越にシム・イルの慰霊碑が立てられた。(略)

「1970年代頃、春川戦闘当時の連隊長と会って『シム・イルのご両親が亡くなった後に正そう』と議論した。ところがシム・イルの母親は満100歳まで生きて2005年に死亡した。それまでに連隊長が先に亡くなり、戦友もあの世の人になった。結局、生きている私に責任が残ることになった。」(略)

2016年06月17日