(コリアタイムズ 韓国語 2017/03/31)

キム・ジョンソプ副局長・企画取材部長

韓国はいつから中国を恐れたのだろうか。高句麗が羅唐連合軍(新羅・唐)に敗北した以降からと見なければならないから、およそ1,400年はゆうに経ったようだ。かなり長い期間だ。中国に対する尊敬心と恐れは韓民族の骨の髄まで入り込んでいることだけは明らかなようだ。最近、韓国に建設中である高高度ミサイルシステム・サード(THAAD)に対する多くの韓国民の行動を見ればより一層そうだ。

韓国の‘恐漢症’はサード事態が初めてではないようだ。西海沖を自分の家のように出入りして不法操業する中国漁船が、韓国海上警察に鉄格子や鉄串、角材、斧などの様々な殺傷武器を振り回しながら攻撃しても、韓国政府はこれという措置を取らなかった。韓国政府が海上警察に抵抗する中国漁船に発砲権限を与えたのも最近のことだ。それも警告射撃だ。外交的摩擦を望まないという意図だったが、自国の主権もしっかりと守らない韓国が無気力に見える。インドネシアやフィリピンは不法操業の中国漁船を拿捕して爆破している。中国政府が威嚇したり中国漁師が暴れまわっているという記事は見たことがない。

6世紀末、中国を統一した隋は、当時東アジア最強国の高句麗を4回も侵攻したため、結局滅びた。隋の文帝(楊堅)は高句麗を臣下と呼びながら屈服しろという内容の国書を送り、属国になれと要求した。モンゴル境界地域まで支配した高句麗の嬰陽王はこれを拒否して先制攻撃を加えた。待っていたかのように文帝は598年、30万人の兵力を率いて万里の長城を越え、海路と陸路を通じて高句麗を侵攻した。

高句麗のカン・イシク(姜以式)将軍は、軍用米を載せて海を渡る隋の水軍を沙卑城の沖合で没殺(皆殺し)して遼東を渡る隋30万陸軍を壊滅させた。三国史記と中国の資治通鑑には「戦争3か月後に生きて帰った水軍は10人中1,2人に過ぎなかった」と記録されている。文帝は死ぬまで高句麗に手を出すことはできなかった。

文帝が死ぬと彼の息子である煬帝が612年、100万の大軍を率いて再び高句麗を侵攻した。煬帝は遼河を渡って遼東省を攻撃した。だが、3か月が経っても城壁を越えることが出来なかった煬帝は、30万人の別動隊を組織して直接平壌城攻撃を命令した。だが、これら大兵はウルチ・ムンドク(乙支文徳)将軍に薩水(今の清川江)で没殺にあった。高句麗軍の刃を避けて逃亡した水軍はわずか2,700人余りに過ぎなかったという。結局、混乱に陥った隋は李世民の唐によって滅びる。

建国初期、高句麗に国書を送って和親を求めた李世民(唐の第2代皇帝)は、645年から高句麗が滅亡した668年まで実に3回にわたり侵攻する。1次と2次は高句麗の勝利だったが、新羅まで加勢した羅唐連合軍に内紛の末、ヨン・ゲソムン(淵蓋蘇文 高句麗の宰相・将軍)を殺した高句麗は遼東を明け渡して滅亡した。

この時から中国の傲慢さは韓半島(朝鮮半島)のあちこちに深くしみこみ、朝鮮時代は最初から事大主義に染まり、王世子冊封と国王冊封まで批准を受けなければならない屈辱の歴史を繰り返してきた。

朝鮮世宗の時、チェ・マンリ(崔萬理)など儒学者は中国と異なる文字を作るのは‘事大慕華’に外れ、自ら‘夷狄’になろうとすることとし、ハングル創製に猛烈に反対した。一部儒学者は明に告げ口までした。

スタンフォード傘下のアメリカの公共政策シンクタンクであるフーバー研究所は去る15日、韓国のサード配備に対する中国の怒りは小国が大国に逆らってはいけないという‘漢族優越主義’を反映したものと分析した。中国の‘大国対小国’コンプレックスは経済的・軍事的に強大になった最近数十年間、中国の対外政策の根幹をなしているともした。中国はそういうことだとしよう。だが、韓国はなぜ自ら中国の優越主義に跪こうとするのだろうか。

お互いに胸倉みをつかみながら外侵を受ければ1つになるのが世の中の道理だ。だが、韓国は外侵にあえば内部の戦いがさらに激しくなる。サードは親北と親米の概念で見ることはできない。一旦政府の政策が立てられたなら、全国力を1か所に集中しなければならない。1度押されれば終わりだ。1度侮られれば再び回復するのは難しいのが世の中の道理だ。経済報復に屈服して中国に跪くなら韓国は再び中国の属国に転落してしまうだろう。(機械翻訳 若干修正)