(アジア経済 韓国語 2017/09/21)
明仁日王が去る20日、東京都近隣に位置した埼玉県日高市にある高麗神社を参拝したというニュースが日本国内で妙な波紋を起こしている。高麗神社は、去る7世紀に高句麗の流民が建てたもので、日本国内ではもちろん、対外的にも韓半島(朝鮮半島)との歴史的な関係を象徴する場所だ。特に歴代日王が参拝したことのないこの神社に明仁日王夫婦が直接訪れて参拝したことにより、その背景をめぐり対内外の耳目が集中している。
高麗神社はよく『コリョ神社』と呼ばれるほど日本国内でも高句麗流民が建てた神社と広く知られたところだ。高麗神社に祀られた神は高句麗の最後の王、宝蔵王の子孫と知られた王若光という人物だ。王若光は西暦666年、日本に使節として派遣され、2年後に高句麗が羅唐連合軍(新羅・唐)によって滅亡すると、故郷へ戻ることができず、そのまま日本に帰化した。
当時、日本朝廷は王若光に官位を下して『高麗王』(こま の こにきし)の称号を下し、王若光をはじめ、関東地域に住んでいた高句麗人1799人を今の高麗神社一帯に移住させた後、この地域を『高麗郡』と呼んだ。王若光は死後に高句麗流民に『高麗明神』という名前で崇められることになり、王若光と共に亡命した高句麗僧侶である勝楽が『勝楽寺』を建てた後、王若光を勝楽寺内の山神閣に山の神として迎えた。以後、王若光の子孫が祭祀を続け、今日に至る。
韓半島との強い歴史的な関係を象徴する場所のため、日本が大陸侵略を夢見た明治維新の時期には寺刹を日本式神社に変えろという強要を受けた。当時、日帝の神仏分離令により明治政府から勝楽寺と仏像を破壊するという脅迫を受けると、しかたなく仏像を保存する条件で神社に変貌した。こうして高句麗人の山の神だった王若光は日本高麗神社の神に変わることになったのだ。
※僧勝楽が王若光を弔うために建立したお寺は、高麗神社の南西約400mに位置する『高麗山聖天院勝楽寺』として別にあります。
このような歴史を持つ高麗神社に日王が歴代日王で最初に参拝したため、様々な解釈が出ている。参拝時点もまた、来月22日の日本の早期総選挙を控えている時点ということも特に注目される理由だ。韓国と中国など周辺国との過去の問題で対内外的に強い非難を受けている安倍政権の立場では圧迫として作用する側面があるからだ。
また、明仁日王はこれまで自分を『百済の子孫』と明らかにしながら韓半島との歴史的連帯感を強く主張してきた人物だ。去る2001年、日王は誕生日記念会見で8世紀に帝位した桓武日王の生母が百済武寧王の子孫とし、韓国との縁を感じると明らかにしている。
2004年には日王の堂叔(従兄弟違い)である朝香宮誠彦王(戦後皇籍離脱した朝香宮の子孫)が忠清南道公州市の武寧王陵に訪問して法事を行った。さらに翌年の2005年には日王が直接太平洋戦争当時、日本軍が戦争を行った東南アジア諸国と南太平洋の島々を歴訪しながら、朝鮮人犠牲者慰霊碑をわざわざ訪ねて黙祷した。
日本王室がこのように韓半島とのきずなを強調するのは、過去、日帝の韓半島および東アジア一帯の侵略に対する反省と和解のメッセージを送りたいものと解釈される。過去の問題で梗塞した韓日関係に北朝鮮の核挑発が新たな問題として作用し、緊密な協力体制構築を望むジェスチャーとも映し出される。
日本宮内庁は日王夫婦の旅行は『私的な旅行』であることを強調しているが、日本国内の波紋はしばらく続く見通しだ。(機械翻訳 若干修正)
日本宮内庁は日王夫婦の旅行は『私的な旅行』であることを強調しているが、日本国内の波紋はしばらく続く見通しだ。(機械翻訳 若干修正)
韓国三大紙の朝鮮日報・中央日報・東亜日報も「反省のため」を強調した記事ですね。(朝鮮・中央は日本語版ですが韓国版ではもちろん(?)天皇ではなく『日王』です)
(朝鮮日報 2017/09/21)
20日昼12時、明仁天皇と美智子皇后が、歴代の天皇では初めて埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪問した。1300年前に日本に渡った高句麗の王子「高若光」(日本名:高麗若光〈こまのじゃっこう〉)をまつっている。
明仁天皇訪問のニュースを聞き、歓迎する人々が朝から約2000人集まったことから、地元の駅と同神社を結ぶ1.7キロメートルの道は大変な混雑になった。60-70代の人々が参道沿いに小さな折り畳みいすやマットを広げて座り、明仁天皇を待っていた。日本の宮内庁は明仁天皇の高麗神社訪問について「公務ではなく私的な旅行」と説明している。明仁天皇は1年のうち250-270日公務を行うため、私的な旅行を楽しむ機会は1年に1・2回だ。高麗神社への旅は明仁天皇の意思や希望を反映して決定されたという。
明仁天皇は日ごろから日本の過去について心から申し訳ないと考えて、韓日古代交流史にも関心が高いと言われている。2001年には「桓武天皇の生母が百済の王族だったと記されている」と発言して話題になった。05年には、太平洋戦争で戦地となった東南アジア諸国や南太平洋の島を訪れた際、朝鮮人犠牲者の慰霊碑をわざわざ訪れて黙とうしている。
明仁天皇と美智子皇后は同日、高句麗の王子から60代目となる高麗文康宮司(50)の案内で境内を見て回った。高麗文康宮司は「両陛下とも朝鮮半島から文明がやって来た過程に深い関心を持っていらっしゃると聞いていたが、実際に、高句麗人と百済人はどう違うのかなどいろいろと質問を受けたので、知っていることをお答えした」と語った。
日本で高麗神社は「出世明神」としても有名だ。斉藤実(1858-1936年)ら歴代首相6人がここに来て参拝後、首相になったという話もある。だが、ある住民は「それでも今日のように、一度に多くの人々が集まったことはない」と教えてくれた。
皇室を20年間取材している毎日新聞の大久保和夫記者は、明仁天皇について「日本国民が『心温かい』と感じ、敬愛している方だ。日ごろから『韓中の文化が伝わってきて今日の日本になった』と考えていらっしゃると聞いている。今回の訪問をきっかけに、韓国についてよく知らなかった一般の人々も関心を持つようになるだろう」と語った。
同日午後4時に明仁天皇一行が高麗神社を出ると、神社の外でずっと待っていた人々もそれぞれ帰り始めた。その中にいたキモトマユミさんは「高句麗人をまつった神社を訪れた意味をいろいろと考えてみたが、『近い国・韓国とはやはり共に行くべきだ』という意味ではないかと思った」と言った。日高市(埼玉)=イ・ドンフィ特派員
(中央日報 2017/09/21)
「高句麗は何年に滅亡しましたか」。20日午後、埼玉県日高市にある高麗神社を訪問していた明仁天皇は神社の管理者にこう尋ねた。高麗神社は1300年ほど前、高句麗からきた渡来人の始祖・若光を祀るために建てられた神社だ。
明仁天皇は若光の子孫である宮司、高麗文康氏の説明を聞きながら神社参拝を済ませた。展示館にある高麗氏の家系図も興味深く見ていた。神社付近の高麗家の住宅を眺めながら「いろいろとよく残っている」と関心を表した。高麗文康氏は天皇に「私には朝鮮半島の人たちがこの地域に築いた歴史を伝えていく役割がある」と述べた。明仁天皇夫妻が高麗神社を訪れたのは「私的旅行」の一環だった。2013年に始まった天皇夫妻の私的旅行はこの日が8回目で、歴代の天皇が高麗神社を訪問したのは今回が初めてだ。
明仁天皇はその間、自ら「百済の子孫」と明らかにし、韓国の歴史と文化に関心を表してきた。明仁天皇は2001年の誕生日の記念会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じる」と述べた。また「武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことで知られているが、残念なことに韓国との交流はこのような交流ばかりではなかった。このことを私どもは忘れてはいけない」とも話した。
3年後の2004年には朝香宮誠彦王が忠清南道公州(コンジュ)の武寧王陵で法事を行った。2005年にはサイパンの韓国人戦没者慰霊地「韓国平和記念塔」を参拝し、2007年には東京で線路に転落した日本人を助けようとして死亡した故李秀賢(イ・スヒョン)さんを素材にした映画試写会に出席した。昨年は東京国立博物館で展示中だった韓国国宝78号の金銅弥勒菩薩半跏思惟像を観覧した。
1989年の即位から「(訪韓の)機会があれば親善関係の増進に努めたい」と述べてきたが、来年末に退位を控えていて訪韓は事実上難しいとみられる。このためこの日の高麗神社訪問をめぐり「韓国側に反省と和解のメッセージを送ることを望んだ」という解釈も出ている。
イ・ミョンバク大統領の『竹島上陸』(2012年8月10日)、『天皇謝罪要求(日王は韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、ひざまずいて謝らなければならない)』がなければ、民主党政権(~2012年12月26日)中に訪韓日程が決まっていたかもしれませんね。
(東亜日報 韓国語 2017/09/21)
「高句麗はいつ滅亡したんですか。」
20日午前、日本,埼玉県日高市。高麗神社を見て回った明仁日王が案内した高麗文康(50)宮司(日本の神社運営責任者)に尋ねた。高麗宮司は高句麗人が日本に定着した歴史について説明した。
高麗宮司は、1300年前、ここに定着した高句麗王族の若光の60代目の子孫だ。668年に高句麗が滅亡した後、最後の王である宝蔵王の息子若光は流民1799人を連れてここに定着した。日高市の過去の名前である高麗郡も高句麗に由来する。子孫は若光を賛えるために高麗神社を建てて直系が代々宮司を務めてきた。
日王夫婦はこの日、1年に2度ある私的旅行の一環でここに訪れた。歴代日王がこの神社を訪問したのは初めてだ。
夫婦は歓迎する市民に手を振りながら、鳥居(神社の境界を示す門)を通り過ぎ、赤い服を着た高麗宮司に頭を下げてお礼をした。日王は神社のそばの古い家屋を見て「いろんなものがよく残っています」と感心した。共同通信は「日王は熱心に説明を聴き、参拝を済ませた」と伝えた。夫婦は準備されたお昼も食べて境内に3時間ほどとどまった。
訪問の理由について共同通信は「さまざまな歴史に触れてもらうためのもの」と伝えた。また、日王が2001年12月の誕生日記念記者会見の際、「私自身としては桓武日王の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と話したことに言及した。
神社関係者は本誌との通話で「日王の訪問理由は知らない」と明らかにした。日王関連業務を担当する宮内庁も『私的な旅行』とだけ述べた。だが、退位を目前にした時点でここを訪れたことをめぐり、過去に対する反省と和解のメッセージを送ろうとしたのではないかという観測が力を得ている。
明仁日王は1989年の即位後、中国、サイパン、フィリピンなどを回って、過去に日本が起こした戦争で被害を受けた人達を追悼する『慰霊の旅程』を続けてきた。韓国文化に深い関心を持つことでも知られている。直間接的に何回も韓国を訪問したいという意思を披瀝してきたが、結局、実現しなかった。このような思いが、最近の日本国内の嫌韓ムードを押し切って高麗神社を訪れる歩みにつながったのではないかという分析だ。
昨年、生前退位の意思を明らかにした日王は、2018年12月か2019年3月に王位から退くと予想されており、任期中の訪韓は難しい状況だ。(機械翻訳 若干修正)
イ・ミョンバク大統領の『竹島上陸』(2012年8月10日)、『天皇謝罪要求(日王は韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、ひざまずいて謝らなければならない)』がなければ、民主党政権(~2012年12月26日)中に訪韓日程が決まっていたかもしれませんね。
