(国民日報 韓国語 2019/04/20)
ソン・ヨンオク美術・文化財専門記者
高麗青磁は1997年にニューヨーククリスティーズのオークションで青磁鉄彩象嵌草文梅甁が297万2,500ドル(約33億8000万ウォン)で落札されたことがある。クリスティーズのオークションで売れた高麗磁器としては歴代最高額だ。高麗磁器は高麗仏画とともに世界的に人気のある高麗時代の美術品だ。韓国美の誇りである。十分知っての通り、高麗磁器は高麗古墳に遺体と一緒に埋められていた器物であった。そのような高麗磁器が、いつから地上の日差しを受けながら美術品に変身したのだろうか。

▲1997年にニューヨーククリスティーズのオークションで約33億8,000万ウォンで落札された高麗青磁鉄彩象嵌草文梅甁。高麗磁器としてはクリスティーズのオークション史上、歴代最高額であった。クリスティーズコリア提供
1905年の乙巳保護条約[第二次日韓協約]以後、日帝の統監府政治が始まった時、初代統監を務めた伊藤博文は“高麗青磁狂”と呼ばれるほど高麗磁器愛好家であった。彼を始めとした日本人統治層の個人的な蒐集熱を背負って高麗磁器が墓から略奪され、古色蒼然な“美術品”として俄然再発見になったことがよく話題になる。
しかし、地中に埋められていた高麗磁器を日本人好事家より20~30年先に美術品として思い焦がれて求めた人達は西洋人だった。開港とともに韓国を訪れた西洋人が『シノワズリ(西洋人の東洋陶磁器愛好)』の影響を受けて高麗磁器を噂をたよりに捜し、蒐集し、鑑賞したのだ。中国に続き日本にはまった西洋人は、自分たちが好む日本の陶磁器が朝鮮から学んできたことを知るようになり、これに中国磁器、日本磁器に続き高麗磁器を購入しようとしたのだ。
実際、開港以後、国内に居住したり一時滞留した西洋人は、外交官、医師、軍人、ジャーナリスト、地理学者などその職業と関係なく、高麗青磁をはじめとする韓国の骨董品を蒐集したという事実は各種記録を通じて知ることができる。よく広く知られてる事例は、漢城法語学校の陶芸教師であるマーテル(Emile Martel、1874-1949)の回顧談だ。
今から40年余り前(1894年)の話だが、私が初めて朝鮮に来た時にはこれといったおもしろい骨董品を見つけることができなかったが、フランス公使プランシー氏(Collin de Plancy)の家や、アメリカ公使アレン氏(Horace Allen)の家で初めて高麗磁器を鑑賞することになり、私はそれを愛し始めた。当時だけでも、そうした高麗磁器の花瓶や壷、皿、鉢のようなものは、ソウルの道をいくら歩いても、どの骨董商でも見られなかっただけでなく、求めようとしてもなかなか手に入らなかった。ところが数年後になると、自ら求めようとしないのに、朝鮮人が度々売りに来たため、徐々に蒐集することになった。
マーテルの回顧談は、1894年以前に韓国に滞留した西洋人、特に外交官、宣教師など知識人層の間で、高麗青磁が陰性的に取り引きされ、鑑賞される段階まで来ていたことを物語る。
これより10年余り先立つ1880年代初期、すでに高麗青磁が西洋人に販売されている事実が明らかになっている。1884~1885年、朝鮮駐箚イギリス領事を務めた『朝鮮風物誌(Life in Korea)』の著者カーロス(William Carles、1848-1929)が、ソウルで完璧な形の高麗青磁36点を求めたことは、特殊な事例ではなかったのだ。

▲カーロスの『風物誌』に彼が入手したものと書き込んだ高麗青磁。
アメリカのスミソニアン博物館の派遣あるいは依頼によって韓国で民俗品や美術品を蒐集した3人、すなわち海軍武官バーナドゥ[John. Baptiste Bernadou]、鳥類学者ジュイ[Pierre Louis Jouy]、医療宣教師アレン(Horace Allen)[Horace Newton Allen]の蒐集品に高麗青磁の浄瓶、梅瓶、皿など9点が含まれていることが確認されている。高麗青磁はアメリカ軍海軍武官バーナドゥと宣教師であり外交官のアーレンがソウルと松島でそれぞれ購入したもので、スミソニアンのコレクションリストにも表記されている[The Bernadou, Allen, and Jouy Corean collections]。また墓に副葬された高麗磁器を購入したことがある。スミソニアンのための彼らの蒐集活動は1881~1885年に行われた。

▲海軍武官バーナドゥと宣教師アーレンが蒐集してスミソニアン博物館に送った浄瓶、梅瓶、皿などの高麗磁器。
1884年に朝鮮を訪れたイギリス人考古学者ゴーランド(W.Gowland)も韓国美術品に関して書いた文で「私が初めて古代の壷に会ったのはソウルであった。松島から持ってきた輝くクリーム色のもので、一般的に墓から出たもの」とし、高麗磁器を取り引きした事実を伝える。あわせて「釜山へ行く途中、スミソニアンのコレクターであるジュイに会って、彼はいくつか得ることに成功したという」と書いた。高麗青磁蒐集が開港初期である1880年代、すでに韓国を訪れた西洋人の間に共有された一つの文化的傾向であったことを示している。
そのため高麗磁器は外交的答礼品としても愛された。明成皇后[閔妃]がロシア公使べベル(Karl Veber、1841-1910)と自身の侍医を務めたリリアス・アンダーウッド(Lilias Underwood、1851-1921)[Lillias Underwood ]にそれぞれ高麗青磁を下賜したことがある。

▲明成皇后が自身の侍医を務めたリリアス・アンダーウッドに下賜した高麗青磁。
これは日本人統治官僚層の高麗磁器蒐集熱以前に、西洋人が時期的に先に高麗青磁の熱烈な愛好家であったことを示す重要な事例だが、これまでは『日本人統治官僚の文化財収奪論』に埋もれて注目されなかった。
18世紀以降、西洋の方の極東に対する関心が韓国美術品を蒐集する要因になり、西洋外交官たちの高麗青磁に対する関心と蒐集は盗掘品や家伝されていた高麗青磁が流通する初期市場を開いた。したがって筆者は高麗青磁市場が開港期に胎動したと見る。
日本の史学者である藤田亮策の回顧はこれを裏付けてくれる。
「京城に領事館が設置されるやいなや、何事にも熱心な欧米外交官たちは故国に朝鮮の特産品を送り、日清戦争と日露戦争の間には紀行文を通じて新興国の風土を紹介するのに尽力し、朝鮮の土俗品を幅広く蒐集する人もあらわれたという。(中略)。したがって、明治40年(1907)を前後して開城と江華島の高麗遺物が活発に盗掘され、美しい青磁、白磁が相次いで市場に出てきた。近頃、西洋人が明と清の鮮やかな赤絵金銀彩を見る目ができ、宋と元の清純な陶磁器を見ることができることになった。高麗磁器もその好みに応じて彼らの蒐集欲を満たすに至り、初めて朝鮮の物が美術品として鑑賞されるに至った。」
強調すれば、中国磁器に投影された西洋人の視線がそのまま高麗磁器に転移し、このような関心が事物としての高麗磁器を美術品に昇格させるのに一助となったということがわかる。もちろん、高麗磁器購入の背景には経済的要因も作用したものと推定できる。中国宋代の磁器と日本の磁器は、すでに西洋人を対象にした市場が形成されており、値が大きく上がったため、市場自体が形成されておらず値が安い韓国の高麗青磁に目を向けたものと推察される。(機械翻訳 若干修正)
「盗掘は西洋人に売るために朝鮮人が始めた」ということですね。
「盗掘は西洋人に売るために朝鮮人が始めた」ということですね。

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