100年前の我が国の山林、「禿げ山と若い松だけ」

(聯合ニュース 韓国語 2009/09/09)  




山林科学院が1910年の『朝鮮林野分布図』を分析




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100年前の我が国の山林は、どのような姿だったのだろうか?




8日、国立山林科学院によれば、1910年に製作された『朝鮮林野分布図』を使い、100年前の南北朝鮮全域の山林の姿を分析した結果、当時の全体の山林面積は1,585万ha(島嶼を省く)で、全国土の71%に達した。



山林の面積は現在の韓国地域の山林率(64%)よりも多かったが、木材資源を示す林木蓄積量は1?(1万?)あたり17立方?。現在の韓国(1?当たり103?)の16.5% 水準に過ぎなかった。




森の構成は大木の森(成熟林)が32%、若木の森(稚樹林)42%、禿げ山(無立木地)26%であり、大木の森の73%が北部地域に分布した。このうち特に咸鏡道(ハムギョンド)と平安道(ピョンアンド)に66%があった。



林床分布別では、松のような針葉樹林が43%で、クヌギの木のような広葉樹林(30%)よりも多かった。




北朝鮮地域は白頭山(ペクドゥサン)を中心に、比較的鬱蒼とした森が維持されていたが、韓国地域は白頭山脈の一部に大木が残っていただけで、海抜の低い低地帯には若い木と禿げ山が大部分を形成した。




100年前の我が国の山林は、トラが出沒するくらいに古木が鬱蒼としていたという予想とは違い、現在の水準よりも劣っている事が分かる。




『朝鮮林野分布図』は、日本の強占期に朝鮮総督府が朝鮮林の調査事業の一環として製作した、現存最古と同時に初の朝鮮半島全域の山林分布図。この地図は山林科学院緑色経済研究課のペ・ジェス博士が、1996年に日本の北海道大学の中央図書館で入手した物の写本であり、縮尺は50万分の1。




20万分の1の縮尺でも製作されていて、樹種分布(松、針葉樹、広葉樹)と所有区分(国有林、私有林、寺刹林)、林床分布(成熟林、稚樹林、無立木地)、封山(朝鮮末期に国家直属管轄の山林)というような情報を含んでいる。



山林科学院の関係者は、「この地図は、約5ヶ月という非常に短い期間に現地を調査して製作した為に正確度は落ちるが、100年前の我が国の山林の姿を見せる唯一の地図で、大変に貴重な資料だ」と話した。(翻訳 2ch ちょーはにはにちゃんwφ氏)


こうした資料は決して韓国では認められないんでしょうね。



そして併合後も、山林保護には苦労しているようですね。














黒田生「歩一歩」 『山潮』第24号 1933(昭和8)年




 僕が荒廃地現況調査に出張中T面S里での出来事の一つ。




 某月某日、例によつて僕は先づ区長の家を訪問した。生憎と区長は留守で、区長の父が代つて僕と面会した。僕は何時もの通り、荒廃地調査に砂防事務所から出張した旨を告げて後S里里界の案内を乞うた。チヨンマゲ姿の区長の父は長竹(チヤンチユツ)を持つたまゝで、いやいやながらノロノロと山を登つた。漸くの事で里全体が見える山の頂き迄僕を案内した彼氏は、長竹(チヤンチユツ)を振りまはしながら、一通り里界の説明を終つてさて曰く


「若し砂防工事がS里で始まれば施工後は保安林に編入されますか」

と僕に質問した。僕は直ちに


「林野保護の上から見てどうしても保安林に編入する必要があります」

と答へた。




区長父「保安林に編入されたら薪(たきぎ)はとれなくなりますね」



K「さうです」



区長父「それではS里は砂防工事をやつて貰はなくてもよいから調査せずに帰つて下さい」


僕は苦笑した。何と答へ様かと思つたがすぐに

「S里は大分荒廃が進んで居りますから、何れ砂防工事をやらなければとても治りません。この分では一年増しにひどくなつて、最後には一本一草も止(とど)めぬ赤禿山になるのみか年々山から流れ出る砂の為に次第にS[引用者註:水田]は埋没されて行きますがね」



区長父「赤禿山にならうが、Sが埋没されやうが、私は一向構ひません。そんな理窟(りくつ)を云はずに早く帰つて下さい」



K「赤禿山になれば勿論薪はとれなくなります。Sが埋没されて行けば年々お米の収穫が少くなるのみならず、豪雨の際は、家や人の命までも脅かしますがそれでもいゝですか」



区長父「貴方はまだそんな理窟を云ふ。私はもう五年六年は愚か明日にもわからない命だ。私が生きてゐる間だけ薪がとれてSが作れゝば結構だ。孫子の代までも考へる必要なんか無い。私さへ生きられゝばそれで満足だ。山が禿げやうが、Sが潰れやうが、そんな先の先の事はどうでもよい。理屈は云はずに早く帰りなさい。私は貴方の顔を見ると、すぐにでも砂防工事が始まる様な気がして頭が痛くなる。一刻も早く帰つて下さい。もう私は貴方には用は無い。先に帰る。」



区長の父はかく言ひ残してさつさと下山して行つた。



「コツコツと史料を集める梟のブログ 『歩一歩』」より



「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社 

 

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。



私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。




私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。
(中略)


あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。




私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。




また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。




日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。



「大日本史番外編朝鮮の巻 『在日コリアンの来歴』」より



 









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崔 基鎬





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