(共同通信 2020/09/23)

 NHK広島放送局が原爆被害を伝えるため始めたツイッターで「朝鮮人の奴ら」などと投稿し、差別をあおっていると批判を受けている問題で、在日本大韓民国民団(民団)中央本部人権擁護委員会などが23日「投稿は民族差別を扇動する」として、広島法務局に人権救済を申し立てた。

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▲広島法務局に人権救済の申立書を手渡す在日本大韓民国民団広島県地方本部の李英俊団長(右)=23日午前、広島市

 「1945ひろしまタイムライン」と題したツイッターは「もし75年前にSNS(会員制交流サイト)があったら」という設定で3月に開始。原爆投下前後に書かれた被爆者の日記などを基に更新が続いている。

 1945年8月20日の設定で「戦勝国となった朝鮮人の群衆」が「乗客を窓から放り投げた」などと投稿された。


8月20日付の全投稿↓

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当時の朝鮮人↓

【鄭大均著「韓国のイメージ戦後日本人の隣国観」より抜粋】

〈〝もう日本人じゃない〟日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でも〝モノ〟が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに〝モノ〟を動かした。当時絶対に手にはいらなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。完全な無警察状態――。そのいい例が二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に〝不審尋問〟され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。〝見まい、聞くまい、振りむくまい〟深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという〉[毎日新聞社編、一九五六:『白い手黄色い手』毎日新聞社二九-三〇]

〈終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は二百万以上いたが、とくに兵庫に多く、昭和十八年に十三万五千人、四十七都道府県の七パーセント強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。(中略)/彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を阻んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。/こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。/腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。/警官が駆けつけても手も足もでない。/「おれたちは先勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。/警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。/さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。(中略)/彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。/彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。/警察は無力化し、やくざは手をこまねいて目をそらす。/いったい、だれが街を自衛すればいいのだ〉[田岡、一九八二:「田岡一雄自伝《電撃編》』(徳間文庫)徳間書店一七四-一七六]

〈平時であれば、内国人と外国人の地位はいずれの国家においても、内国人のそれの方が優遇されていた。(中略)ところが敗戦日本においてはまったくそうでなかった。外国人は、日本の権力の下でその法令に服するのではなく、連合国の権力の下でその管理法令に服することになったのである。そして、最上位に連合国人が存在して次に中立国人や無国籍人が位し、一番下に日本人が位置した。(中略)敗戦直後に朝鮮人が、敗戦で「われわれは二等国民で、日本人は四等国民となった」として連合国人としての地位と待遇を要求したのは、この縦の階層的関係を直覚的に悟ったからにほかならないであろう。そして在日朝鮮人はこの縦の階層的関係の中で可能な限り上に、すなわち連合国人にできるだけ近づくことを期待した。解放前に日本(人)に抑圧され差別されたという思いが深い分だけ、日本人とへだたった地位に、つまり連合国人と同様の特権を享受しうべく優遇されることを要求し、容れられない場合は実力で獲得したのだった〉[加藤晴子、一九八四:「在日朝鮮人の処遇政策過程にみられる若干の問題について――一九四五年~一九五二年」、『日本女子大学文学部紀要』、第三十三号五五]