(産経新聞 2024/07/25)
韓国が不法占拠する竹島(島根県隠岐の島町)を巡り、領土・主権展示館(東京都千代田区)が1954年の武力占拠直後に数百頭のニホンアシカの生息が確認されていたことを示す韓国側の記録をパネル展示している。ニホンアシカは75年を最後に目撃情報が途絶えており、韓国側では日本人による無差別な乱獲で絶滅に追い込まれたという主張がある。パネルはこうした主張に対し「なぜ、ニホンアシカが姿を消したのか、冷静で学術的な議論が必要だ」と指摘する。

▲竹島(島根県隠岐の島町)とニホンアシカの関わりを紹介する領土・主権展示館のパネル展示=25日午前、東京都千代田区(奥原慎平撮影)
◇不法占拠中に絶滅か
パネル展示は、親子向け夏休みイベントのミニ企画展「どうぶつウォッチング!~北方四島・竹島・尖閣諸島のなかまたち~」で、9月1日まで紹介されている。
かつて、竹島はニホンアシカの一大繁殖地だった。
江戸時代には米子(現・鳥取県)の商人が竹島に渡航し、幕府公認でアシカ猟を行っていた。明治になると隠岐(現・島根県)在住の漁業者、中井養三郎が過当競争によるアシカの減少を懸念し、1904(明治37)年、政府に竹島の貸し下げを願い出た。翌年1月に竹島は島根県に編入され、猟は県の許可制となった。
明治後期には、年間679~約2800頭が捕獲され、油や革製品として重宝されていた。昭和期になると生け捕りにして、動物園やサーカスに売っていたという。竹島のアシカ猟は先の大戦直前の41年に中断される。
戦後、韓国は58年、竹島に沿岸警備隊を常駐させる。75年に同島で2頭が確認されたのを最後に目撃事例が途絶えており、韓国の不法占拠が続く中、絶滅したとみられる。
◇韓国の主張は韓国の記録でも無理が
一方、韓国では「戦前の日本の乱獲で全滅した」などと唱えられている。慶尚北道独島史料研究会は2014年、「独島(竹島の韓国名)のアシカを滅亡させたのは日本だ」と主張した。
今回のパネル展示はアシカについて、韓国の国立海洋調査院が13年の報告書で「1958年に少し(200~500頭前後)生存と報告。保護政策はなく、捕獲を継続。75年の最後の目撃以降、絶滅したと推定」と指摘した記録や、韓国の研究者が78、79年に世界自然保護基金(WWF)に提出した報告書で「(約500頭のアシカが)57年まで独島(竹島の韓国名)に生息していたが、駐留した武装警備隊に恐れをなして移動してしまったようだ」とした点を盛り込んでいる。この報告書は「繁殖地の回復にもっともよい方法は島から警備隊を撤退させることだ」とも指摘している。
パネルはこうした韓国側の報告について「『日本人がアシカを絶滅させた』という主張は、韓国側の記録からみても無理がある」と指摘した。(奥原慎平)
(産経新聞 2016/07/04
竹島は、1905年2月22日、「島根県告示第40号」により島根県隠岐島司の所管に入った。それは、竹島でアシカ猟をするため、島根県周吉(すき)郡西郷町(現隠岐の島町)の漁業者、中井養三郎が、島の貸し下げを明治政府に求めたことに始まり、明治政府は同年1月28日の閣議決定で、無主の地だった無人島を「竹島」と命名して日本領に編入し、冒頭の島根県告示に至った。竹島とアシカには、そのはじめから浅からぬ因縁があったのだ。
◇韓国の“定説”に異を唱えた韓国紙
近年、韓国側ではその竹島(独島)のアシカに関心が集まっている。
日本の内閣官房領土・主権対策企画調整室が2014年12月、隠岐の漁師と竹島のアシカとの関わりを描いた絵本「メチのいた島」の読み聞かせ動画を公開した。これに、韓国側が対抗して竹島にアシカ像を置こうとしたが実現せず、翌年8月になって竹島の船着場近くにアシカのレリーフを設置した。
韓国側には、「独島(竹島)のアシカを絶滅させたのは日本人だ」とする歴史認識が根強く、レリーフはその広告塔として利用するのが狙いだ。
ところが、その認識を覆す記事が6月13日、韓国の慶尚毎日新聞(ネット版)に掲載された。同紙のチョウ・ヨンナム記者がさまざまな証言を集め、日本人が竹島のアシカを絶滅させたとする定説に異を唱えたのだ。
◇「アシカ滅亡は日本のせい」と主張する韓国
チョウ記者は、1950年代半ば、竹島に上陸していた独島義勇守備隊の複数の隊員から「当時、アシカは最小限700頭余りが生きていた」との証言を得ている。これは1960年代も同様で、竹島に駐在した海洋警察隊員と漁民が「数百頭が棲息(せいそく)していた」と証言している。
1970年代初頭も変わりがなかった。工事のため竹島に渡った韓国・欝陵(うつりょう)島の住民が「当時、数百頭が生きていた」と証言しているからだ。1970年代の初めまで、竹島にはアシカが生存していたのである。
しかし、竹島問題と関連してアシカが論じられると状況が違ってくる。
島根県竹島問題研究会が2014年に刊行した『竹島問題100問100答』では、韓国の不法占拠時(1954年)には200~500頭のアシカが竹島に生息していたが、1970年代半ばを最後に目撃情報が途絶え、2010年に「韓国政府が絶滅宣言を行う」との報道がなされたことなどを指摘した。
これに対し、韓国の慶尚北道独島史料研究会は「韓国ではアシカの油は採取せず、皮も使わないので、独島のアシカを滅亡させたのは日本だ」と反論したのだ。
◇機関砲で撃ち、イカ漁のため追い払う
だが、この反論は事実と違う。チョウ記者は、竹島のアシカが絶滅した背景について、「アシカの『海狗腎(かいくじん)』(生殖器)と肉を得るためで、独島を警備していた隊員が(アシカを狙って)独島の東島頂上から機関砲を撃ち、射撃訓練をしていた」とした。
さらに、隊員の中には、「海狗腎を政府の高官や軍の上層部に上納していた」と証言する者もいたという。
また、竹島周辺では韓国によるイカ漁などの漁業が盛んになり、集魚灯近くにアシカが出現すると魚が逃げるため、漁師らが追い払ったという。
このように竹島に群棲していたアシカは、韓国側が乱獲したことに加え、漁師によって棲息地から追い出され、その繁殖地を失って絶滅した-というのが史実に近い。
◇多様な用途あったアシカ
慶尚北道独島史料研究会は「韓国ではアシカの油は採取せず」とするが、それも事実ではない。
明治の探検家、松浦武四郎の『竹島雑誌』(1871年刊)では、「朝鮮人これを猟せば/油を得る」としている。アシカには、さまざまな用途があった。
それを示しているのが、2012年8月19日付『中央日報』である。同紙は、「独島守備隊が武器を調達する際、釜山のヤンキー市場に行き、アシカ1頭と引き換えに拳銃と小銃を取得した」と報じている。これは、アシカが売れることを知っていたからだ。
チョウ記者によると、1960年代、警察署長の求めに応じ、欝陵島の金某氏がアシカ1頭を捕獲すると、お礼に「麦を2叺(かます)(1叺=76・5キロ)ももらった」という。この警察署長が求めていたのはアシカの海狗腎で、朝鮮半島ではアシカの生殖器を滋養強壮剤としていたからである。
◇新羅時代にも存在したアシカ猟
アシカ猟の歴史は古い。朝鮮時代の医師・許浚(ホ・ジュン)が著した『東医宝鑑』(1610年成立)では、「新羅国、海狗の外腎(がいじん)なり」として、新羅時代にも存在したとしている。
『東医宝鑑』の「湯液篇」では、アシカを「膃肭臍(オットセイ)」と表記し、明代の医師・李時珍の『本草綱目』(1578年成立)では「膃肭臍」の一名として「海狗腎」を挙げ、「膃肭獣」を「海狗」としている。
アシカの生殖器が海狗腎とされたのは、海狗の「腎(性器)」だったからである。
『東医宝鑑』では、膃肭臍の棲息地として江原道の平海郡を挙げ、膃肭臍は「甚だ貴く得難し」としている。そのため、『世宗実録・地理志』(15世紀成立)の「平海郡」条では、膃肭臍を「薬材」に分類したのである。『新増東国輿地勝覧』(16世紀成立)になると、平海郡の「膃肭臍」は「海獺(うみうそ、アシカ)」とされている。当時、アシカは膃肭臍だけでなく、「海狗」とも「海獺」とも呼ばれていた。
◇アシカ絶滅の経緯が史実究明につながる?
だが、朝鮮時代のアシカの棲息地は、平海郡や江戸時代に鳥取藩米子の大谷・村川両家がアシカ猟をした欝陵島だけではなかった。
『秋江先生文集』(「遊金剛山記」)によると、朝鮮時代の文臣・南孝温は、杆城郡の清澗駅近くや襄陽の海辺でも海獺の群鳴に遭遇している。そのアシカもまた、時代とともに姿を消していった。
1976年8月、韓国・梨花女子大学の調査チームが竹島で調査した際に、アシカの生息が確認された。その時、韓国内ではアシカの保護が叫ばれたが、実現しなかった。
ここでチョウ記者が伝えたかったのは、「竹島のアシカを絶滅させたのは日本だ」とする虚偽の歴史を捏造(ねつぞう)し、日本を非難すれば、国際社会から韓国は「嘘つき」の烙印(らくいん)を押されてしまう。それでは竹島の領有権を争う際に、不利になる、ということだった。
だが竹島のアシカが絶滅した事実を究明していけば、やがて竹島を韓国領とする「歴史認識」についても、史実を究明しなければならない時が来る。チョウ記者は言外にそう語っているのかもしれない。

都合よく(朝鮮の)悪事だけ日本に押し付けんな。
specificasia
が
しました