(中央日報 2025/08/12)
故延徳春(ヨン・ドクチュン)韓国プロゴルフ協会(KPGA)顧問が日本オープン優勝カップで本名を取り戻した。

KPGAは12日、ソウルプレスセンターで「大韓民国1号プロゴルフ選手、故延徳春氏の歴史と伝説を復元する」行事を開き、日本オープン選手権大会の記録訂正と優勝トロフィー復元記念式を進行した。

延徳春は日帝強占期だった1941年、日本プロゴルフ最高権威の大会、日本オープンで4ラウンド通算2オーバー、290をマークし、韓国人初の国際大会優勝を果たした。しかし日本ゴルフ協会(JGA)の記録と優勝カップには「延原徳春」という日本人の名前で残っていた。

KPGAと大韓ゴルフ協会(KGA)は昨年JGAに国籍・名前の訂正を要請し、光復(解放)80周年・韓日国交正常化60周年を迎えた今年4月にこれを貫徹させた。

行事に出席した山中博史JGA最高運営責任者は「延徳春顧問は政治的な背景のため韓国名を使用できず日本名で大会に参加した」とし「訂正要請を受けた後、全員一致で記録を訂正した」と伝えた。

キム・ウォンソプKPGA会長は「延元顧問は韓国ゴルフの根」とし「今回の訂正は韓国ゴルフの正統性を刻印した歴史的な成果」と評価した。韓国戦争(朝鮮戦争)で遺失した優勝トロフィーもこの日、復元されて公開され、独立記念館に展示される。

1916年にソウルで生まれた延徳春は京城ゴルフクラブでキャディーをしながらゴルフを習い、1934年に日本に留学してプロ資格を取得した。1936年のベルリンオリンピック(五輪)マラソン金メダリストの孫基禎(ソン・キジョン)と共に日帝強占期中に韓国人の力を見せた。

延徳春は1958年の韓国初のプロゴルフ大会KPGA選手権大会の初代チャンピオンとなり、1968年のKPGA創立を主導した。2004年に死去するまで韓国ゴルフの発展に献身し、KPGAは延徳春の業績を称えて1980年から最少打数賞を「徳春賞」として授賞している。

(JGA 日本ゴルフ協会「日本オープンの歴史」)

〇京都に持ち去られたオープントロフィー

1941(昭和16)年、戦前の日本オープン最後の年である。戦線の拡大に伴ってゴルフの自粛、JGA主催の5競技のうち、アマチュアとプロの東西対抗は中止。日本オープン、日本アマ、日本プロの三選手権だけが続行された。この年の日本オープンは5月8日から3日間、程ヶ谷カントリー倶楽部(6,667ヤード、パー72)に73人(アマ24人、プロ49人)が参加して挙行された。

第1ラウンドは初参加の小針春芳(20歳、那須)が飛び出して行田虎夫(茨木)が71で並び、2打差で延原徳春、岩倉末吉、小池国喜代が続いた。

第2ラウンド、小針は77を叩いて脱落、68のコースレコードを出した中村寅吉と延原、行田、岩倉が首位に並んだ。

第3ラウンド、延原が手堅いプレーを展開して単独首位に立ち、これに中村、宮本が続いた。

最終ラウンドは宮本が2番でOBを出して圏外に去り、延原、中村の争いになった。延原の快調なゴルフに対して中村はミスパットが多く、前日の3打差は詰まらないまま延原の優勝が決まった。これで伝統の日本オープントロフィーは玄界灘を渡り京城に持ち去られた。延原の優勝を人一倍喜んだのは富野繁一氏(当時、朝鮮ゴルフ連盟常務理事)だった。延原を献身的に世話をした人で、2連覇の夢を延原に託していた。優勝した延原は朝鮮籍だったが、朝鮮総督府の命令で、1940年以降、日本姓を名乗らされていた。

アマは三好徳行の28位タイが最高だった。延原の近況は元気で時折クラブを振っているという。