(朝日新聞 2025/08/19)
 敗戦後、大陸から日本に引き揚げてきた女性のなかには、性暴力によって妊娠させられた人がいた。当時、原則違法だった中絶手術が認められた背景には、国家の思惑も働いていた。

■性暴力被害を考慮、国家の思惑も

 5月14日、福岡県筑紫野市。埼玉県に住む岡本清美さん(76)は、「二日市保養所」の跡地で開かれた水子供養祭に出向いた。手を合わせ、おばの代わりに祈った。「安らかに眠ってください」

 1945年、看護婦だったおばの池上澄江さんは、現在の韓国にあった京城帝国大学病院で敗戦を迎えた。朝鮮半島南部には米軍が進駐。日本の朝鮮統治は終わった。池上さんたちは患者を連れて、46年1月に病院船で福岡・博多港に上陸した。

 一方で、ソ連軍が侵攻した満州(現・中国東北部)や朝鮮半島北部にいた日本人は、簡単には帰ってこられなかった。

 45年12月の衆院本会議では、議員が満州や朝鮮半島北部などについて発言した。「言語に絶する慘憺(さんたん)たる状態」「夫や父の前で妻や娘は暴行され、(中略)自殺する婦人は続出している」
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 <記録は残されず>

 博多港に引き揚げてきた京城帝国大学の関係者らは、外務省系の財団法人の資金援助をとりつけて46年2月に「在外同胞援護会救療部」を組織。病院や孤児の支援施設を立ち上げた。岡本さんが幼いころ、父親は病院で事務長を務めていた。

 女性患者を集めた保養所は、20キロ弱離れた二日市につくった。目的は性病の治療と、当時原則違法とされていた中絶だ。

 池上さんは46年4月から保養所で働いた。戦後50年の95年、朝日新聞記者の取材に答えている。

 中絶は風呂場を改造した手術室で行われた。池上さんは主に病室で患者のケアを担った。

 「何回も何回も強姦(ごうかん)されて、誰の子か分からんという話も聞いています。ロシア人も中国人も日本人もおったらしい」

 保養所で、女学生時代の知人に会ったこともあった。お互い、知らないふりをした。「記録に残さないように、残さないようにしていた。(カルテは)焼却したんではないでしょうか」

 保養所は1年あまりで閉じた。80年代には医療関係者をたたえる碑が建てられ、90年代には跡地に当時の医師や看護婦らが集まった。生きて生まれた赤ん坊の頭に、医師がメスを突き立てて絶命させざるをえなかった――。元婦長は集会で、そんな証言をした。

 戦時中、中絶は「産めよ殖やせよ」の号令のもとで厳しく制限された。性暴力を理由に、中絶を認める規定もなかった。

 だが、敗戦という非常事態のなか、厚生省(当時)は一転して中絶を後押しする。46年4月の「引揚婦女子医療救護実施要領」では、「諸種ノ事情ノ為正規分娩(ぶんべん)不適ノ者」らに対しては「極力妊娠中絶ヲ実施スル」と位置付けた。
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 <国会で「純血を」>

 医療者が自発的に設けた二日市保養所だけでなく、引き揚げ港がある北海道や京都、長崎などで国立病院・療養所が女性の入院先に指定された。

 関係者への聞き取りを重ねてきた立命館大学の山本めゆ准教授(ジェンダー史)は「女性の保護だけでなく、国民の純血を守るという考えが背景にあった」と指摘する。

 国会では「血」を引き合いに衆院議員が中絶を広く認めるよう法改正を求めた。46年8月、引き揚げ女性の窮状を訴え、「日本人の血の純潔を保ち、貧困による自殺や子どもの殺害を防げる」という趣旨の発言をした。

 山本准教授は「戦時下・占領下の性暴力により被害者に宿った混血児は『敵』と同一視されやすく、強い警戒の対象になっていた」と指摘する。ただ、実際に中絶を希望した女性たちがいたこと、子捨てが頻発した時代状況を踏まえれば、「国家の思惑が個人の救済にも結びついたケースだった」と話す。

 二日市保養所で働いていた池上さんが2004年に亡くなってから、おいの岡本さんは供養祭に参列するようになった。当時を知る人たちの話を聞き、女性を守ろうとした医療者の思いと、胎児の命が消えていった施設の歴史を知った。

 岡本さんは「保養所での行為が正しかったかどうか、自分自身わかっていない」。来年以降も体力が続く限り、供養祭に参列したいと思う。(榎本瑞希、坂本純也)

 <二日市保養所>

 1946年3月開設。博多引揚援護局史によると、46年3~12月で患者数は380人にのぼり、「不法妊娠」は213人だった。正常妊娠の女性も、栄養失調や結核などで中絶を迫られた人が過半数だったと記されている。二日市保養所以外の施設でも中絶を行ったという医師の証言があるが、全国での中絶の実態は明らかではない。
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