(共同通信/サンスポ 2015/10/14)
辻谷 政久氏(つじたに・まさひさ=砲丸職人)。9月20日午前10時36分、急性心筋梗塞のため、東京都新宿区の病院で死去、82歳。東京都出身。自宅は埼玉県富士見市水谷。葬儀・告別式は家族で行った。喪主は妻昌子(まさこ)さん。
家族経営の工場で40年以上にわたって陸上競技で使う砲丸を製作。96年のアトランタ五輪から3大会連続で、男子砲丸投げの全メダリストが辻谷氏の砲丸を使用した。球の中心にぴったりと重心を合わせる高度な技術で「世界一の砲丸職人」と称され、08年に黄綬褒章を贈られた。
2008年03月25日
「北京五輪には砲丸を供給しない」 3大会連続メダル独占の日本の砲丸製造会社。
(略)八月の北京五輪には砲丸を供給しない。
(略)八月の北京五輪には砲丸を供給しない。
辻谷さんは「スポーツの世界に政治を持ち込むのが気に入らなくて」と、過去にサッカーなどで反日感情が激化したことを挙げる。(略)
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![]() 埼玉県富士見市にある家族経営の町工場――、それが(有)辻谷工業だ。 砲丸メダリストの多くが支持する「球」は、いかに完成したのか。 70歳を超えた今も現役で活躍する、職人・辻谷政久さんを訪ねた。 「重点がずれた砲丸は、飛距離が2メートルは落ちてしまう。俺は、日本の砲丸で投げるよ」――。 2000年のシドニーオリンピックの前、当時の砲丸投げの第一人者であるアルシ・ハリユ(フィンランド)が語った言葉だ。 砲丸投げには「マイボール」の使用は禁止されている。 例えば、オリンピックでは、IOCの審査をクリアした世界5~6社の公式球が、会場に並び、選手はそのなかから自分に合った球を選んで使う。これが砲丸の世界のルールなのだ。 アトランタ(1996年)、シドニー(00年)、アテネ(04年)のオリンピック3大会の男子砲丸投げで、金、銀、銅メダルを取った3人の投げた球は、すべて“日本の砲丸”を使用している。 その“日本の砲丸”を作る職人――、それが辻谷政久さんである。 「表彰台独占ですか?それは嬉しいですけど、決勝に残るほとんどの選手が、日本製を使うでしょ?投げる前からメダル獲得は分かっているわけで、ドキドキ感はないですよね」 そう話すと、辻谷さんは茶目つ気たっぷりの笑顔を見せた。 ● 辻谷さんの父親は、自動車部品を作る工場の事業主。工業高校の夜間部に通いながら、辻谷さんは、その仕事を手伝うも、将来には不安を抱いていた。 「毎年、コストダウンを要求されていましたから。技術を磨いても、新しい機械を入れても、いずれは行き詰まることは分かっていた。自分は独立して、違うものを作ろうと思ったんです」 独立したのは26歳(59年)。辻谷工業は設立された。まず目を付けたのは、余暇を楽しむための商品開発だった。 「“時短”という言葉が出始めていたんです。アメリカの雑誌を見ながら、日本で流行りそうなものを、次々と作りました。最初は、テントでしたね」 自動車部品作りで培った工作機械全般を使いこなせる技術は、あらゆる商品作りに役立った。しかし、作った商品がヒットすると、すぐに大企業が参入。資本力のない辻谷工業は撤退を余儀なくされた。 大きな転機が訪れたのは、東京オリンピックの翌年(65年)だった。主に陸上競技用品を扱うスポーツ用品メーカー「ニシ・スポーツ」から「ハードルを作ってほしい」という依頼が寄せられたのだ。東京オリンピックでは、同社のハードルは採用されなかった。 「悔しいから、ライバル会社以上のハードルが作りたい。ぜひ協力してほしいと言われましてね」ライバル会社のハードルをチェックすると、ある弱点に気付いた。 「ハードルは高さを調節できますが、その場合は、重りを動かしてバランスを保つ必要がある。その製品は、高さを調節すると、ワイヤーでつながった重りが自動的に動く、素晴らしい出来栄えでした。でも、ワイヤーが外に出ており、競技する選手が足を引っ掛けてしまう危険性があった。そこで私は、ワイヤーを内蔵させたんです」 その結果、ニシ・スポーツはシェアを一気に逆転させることに成功する。 この成功が、砲丸作りへの“道”につながった。ハードル作りから4~5年経った頃のこと――。 日本には砲丸を作れる工場が少ないので、研究してみてくれないかという打診が、ニシ・スポーツから入り、辻谷さんは、そのオファーを受けた。 すると……。 「あまりに簡単だったんですよ。当時の日本の国内規格は、砲丸は男子7.26キロ、女子は4キロという重量規定を満たせば、それ以上の重さでもOKだった。ただ丸くすればいいと考えていたので簡単でした」 その後、「片手間で砲丸作りをしていた」(辻谷さん)という期間がしばらく続くことになる。 状況が一変したのは、86年。日本でも国際規格が採用されることになり、規定の重量にプラスして5~25グラムの範囲で砲丸を作らなくてはいけなくなったのだ。これが難しかった。 「私たちの原則として、精密な製品を作るには、まずデータを取るんです。100個の素材があれば、10個を無差別に取り出して、平均のデータを取ります。そのデータをもとに、砲丸を作るのですが、90個のうち、20~30個は不良品が出てしまった。重さがどうしてもクリアできなかったんです」 砲丸の素材は、鋳物(球状の鉄)。埼玉県川口市の鋳物工場から届けられる。かなり粗い形態で、辻谷さんのもとに届けられ、それを汎用旋盤により切削していき、完成させていくのだが……。 均一の重さの砲丸ができない。辻谷さんは“原点の原点”に立ち返った 「なぜ、見た目が一緒の球状の鉄なのに、均等の重さにならないのか。コンピュータ制御によるNC旋盤も使ってみましたが、手で作るよりも多くの不良品が出てしまいました」 原点に戻って、データを取ってもダメ。NC旋盤もダメ。そこで、辻谷さんは「原点の原点に立ち返ろう」と決心をする。 「鋳物の材料に何かヒントが隠されているのではないかと思ったんです。それで、鋳物屋さんに修行に出ました」 鋳物作りのノウハウを学ぶなかで、辻谷さんはある“事実”を発見する。修行に出るという積極性が功を奏した瞬間だった。 「鋳物に使われる素材は、新しい銑鉄が40%、古い鋳物のスクラップ素材が45%、残りの15%はパイプの切れ端など一般鋼材だったんです。鋳物を滑らかにするためには、一般鋼材も必要だった。これらを炉に入れて溶解しますが、金属の密度にバラツキがあるので、均一には混ざらないんです」 さらに、発見は続いた。 「その工場では、鋳物作りの際、キューポラと呼ばれる溶銑炉を使うのですが、これが円筒型の直立炉なんですね。上から素材を入れていくのですが、引力の関係で、どうしても下のほうに重たい物質が溜まっていくんです」 つまり、砲丸の素材は、上部と底部では密度に違いがあり、それも素材一つひとつ、バラツキがあることを、辻谷さんは知ったのだった。 「それだけじゃないんですよ」と辻谷さんは、言葉を続ける。 「夏にできた素材は、鉄が冷えるのに時間がかかるため、少し大きくなるんです。冬は冷える速度が速いため、密度が濃くなり、小さくなる。こういう事実も知ったんです」 辻谷さんが悟ったこと――、それはデータに頼っても意味がないということだった。 「この素材は生き物だなと。汎用旋盤を駆使しながら、自分の勘を頼りに作っていくしかないと思い至りました」 それから3ヵ月後、国際規格に合う砲丸は完成した。88年のソウルオリンピック。辻谷さんが手掛けた砲丸は、ひのき舞台に上がることを許された。 だが、しかし……。 ソウルオリンピックで、納品した砲丸は使われなかった 「私の作った砲丸を使う選手は一人もいなかった。納品したのに、使ってもらえないのは“敗北”です。言葉にできない悔しさがありました」 しかし、ここでさじを投げる辻谷さんではなかった。自分の砲丸の欠点はどこにあるのか――。それを探り始めた。ある日のこと。工場の近くの土手で試し投げをしているとき、辻谷さんは、ある疑問を抱いた。 「同じ重さの砲丸なんですが、飛ぶ距離が違うんです。それで調べてみると、飛ぶ砲丸は、平面に置くとコロコロ転がらない。一方、飛ばない砲丸は、転がる。『あっ!重心か』とひらめいたんです」 試しに、今までオリンピックで使用された実績のある砲丸を取り寄せ、それらを半分に割ってみた。すると――。 「海外の製品はすべてNC旋盤で作っているんです。そのままの状態では、国際規格の重さに合わすことができずに、砲丸に穴を開けて鉛を入れたりと、重さの帳尻を合わせていました。その結果、重心もズレまくっていた。重心を中心に持ってこれれば、選手に受け入れてもらえると確信しました」 重心を真ん中に持ってくることは至難の技。前述したように、一つの素材でも、上部は密度が濃く、底部は薄くなる。 「つまりは、密度が濃いところを削り、重心を真ん中に持ってくるんですか」と、筆者が聞くと、「簡単に言えば、そうなりますが、肝心なのは勘です。光沢や、旋盤を削っているときの音、指先に伝わる圧力などを感じ取りながら、作業を進めていきます」と辻谷さんは“感覚の大切さ”を説いた。 バルセロナオリンピックに照準を絞っていた辻谷さんは、重心はもちろんだが、もう一つ、あるアイデアを砲丸に盛り込んだ。 それまで砲丸と言えば、表面上はツルツルだったが、手紋を入れたのだ。友人50人近くから指紋を集め、手にフィットするように“筋”を入れた。 「持ちやすくて、投げやすいかなと。筑波大学の学生さんにも試投してもらったら、全員が『投げやすい!』って感想を述べてくれて。JOCの許可も得られて、その砲丸をバルセロナオリンピックに納品したんです」 すると、面白いことが起こった。32個納品したうち、約半分が、本番前に紛失したのだ。選手が自国での練習用にと、無断で持ち帰ったのだった。 「なくなったと聞いて、喜んだのは私だけでした」と辻谷さん。この大会では、日本製の砲丸で獲得したメダルは銀1個。それでも、辻谷さんは大きな手ごたえを感じた。 果たして――。その後のアトランタ(96年)、シドニー(00年)の2大会では、金、銀、銅メダルを独占。辻谷さんの砲丸は、一躍“大人気モデル”となった。 オリンピックという場は、選手だけではなく、あらゆる企業にとって戦場だ。メダルを独占するメーカーは、目を付けられる運命にある。 辻谷さんの考案した「砲丸に筋をつける」というアイデアは禁止という憂き目にあう。しかし、辻谷さんは前向きだった。 「ならば、重心をもっと真ん中にしようと考えましたね。シドニーでは、まだ10分の2程度は重心がズレていました。手触りがツルツルならば、重心でカバーするしかないですから」 アテネオリンピック。日本のカメラマンに砲丸選手のトップ4人が「今回は、日本製はないのか?」と聞いてきたという。筋がついた砲玉がなかったからだ。 「ルール改正の話をしたら、彼らは納得して、ツルツルの私の砲丸を手にしたそうです」 深夜、微妙な音の違いなどを聞き取りながら、最後の仕上げを行う その結果、アテネでも、金、銀、鋼を独占。4位に終わったマルチネス選手(スペイン)は、インド製を使用。競技後に「日本製を使っていれば……」と嘆いたという逸話も残っている。 辻谷さんの砲丸作りは、仕上げまで14工程。汎用旋盤に固定するセンターの穴開けからスタートし、荒びきまでが4工程。この工程は、現在、三男の友孝さんが行う。 その後の工程はすべて辻谷さん自身が行う。最後の仕上げは、夜に一人で行う。微妙な音の違いなどを聞き取りながら、重心を中心に持ってくる。球一つに全神経を集中させるのだ。 現在、辻谷さんは、73歳(06年時)。自身のこれからを聞いた。 「オリンピックで3大会制覇したでしょう。だから、私自身は、もう達成感があるんですよ。後継者についても、それほど考えていませんね。三男は私より器用ですから、いいモノを作る可能性は秘めていますが、それも本人次第。私だって、親から独立して、自由にやってきたんですから」 ● じつは、01年春に、辻谷さんは海外メーカーから週給2万ドルで、技術的なライセンスの譲渡を条件に、技術指導に来てほしいというオファーをもらっている。 「断りました。鋳物屋さんなどの協力なくして、ここまでの砲丸を作ることはできませんでしたし、日本発の技術は大切に守らないといけませんから」 1週間に200万円のオファーがあったことを、当時、家族には知らせなかったという。 「女房には、あとで、すごく怒られましたね」 そう話すと、長年の作業で黒ずんだ、まさしく職人の手を頭にやりながら、辻谷さんは大きく笑った。 (2006年8月取材、07年10月加筆修正) つじたに・まさひさ (有)辻谷工業代表取締役。1933年生まれ。工業高校在学中より、親の工場で働く。26歳で独立し、辻谷工業設立。83年、(有)辻谷工業として会社設立。砲丸作りの職人として、確固たる地位を築く。工場は埼玉県富士見市にある。 【永峰英太郎 著「日本の職人技-松井のバット、藍ちゃんのゴルフクラブをつくる男たち」 アスキー新書 P87-102】 |
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