(亀尾日報 韓国語 2015/12/20)
クォン・ウサン(権禹相)命理学者。歴史小説家
百済の東城王(24代百済王)の死で王位に上がった武寧王(25代)は蓋鹵王(21代)の息子であり、困支(ママ 昆支?)の養子である。462年、倭の地にある奈良百済に行く途上である各羅嶋(加唐島)で生まれ、名前は隆である。生まれた後、続けて奈良百済で成長したので日本語でシマ(島)または、サマと呼んだ。それで彼を斯麻王とも呼ばれた。ここで私たちは中国大陸と韓半島の他に倭の紙にもう一つの百済があったということが分かる。まさに奈良百済だ。
奈良百済は近肖古王(13代)時代に建国され、当時、近肖古王は大陸の百済、韓半島の百済、倭の地の奈良百済の三地域を統治し、大帝国の皇帝であった。大陸から韓半島は距離が近いが、倭の紙は大陸から距離が遠く、当時は海上交通が発達していない時代のため、倭の地の奈良百済を自治的に統治する王を置いており、これを天皇と呼んだが総督のようなものであった。サマは彼が生まれるとすぐに生母と一緒に大陸百済に戻ったが、政治的状況が非常に不安で奈良百済にいる昆支のもとに再び送られた。
奈良百済は近肖古王(13代)時代に建国され、当時、近肖古王は大陸の百済、韓半島の百済、倭の地の奈良百済の三地域を統治し、大帝国の皇帝であった。大陸から韓半島は距離が近いが、倭の紙は大陸から距離が遠く、当時は海上交通が発達していない時代のため、倭の地の奈良百済を自治的に統治する王を置いており、これを天皇と呼んだが総督のようなものであった。サマは彼が生まれるとすぐに生母と一緒に大陸百済に戻ったが、政治的状況が非常に不安で奈良百済にいる昆支のもとに再び送られた。
このように、百済王室で王子を思いのままに倭の地の奈良百済に送ったり、連れて来たりしたのは、奈良百済は百済が支配する領土であったためである。
百済は王子だけでなく、百済の文物を倭の地の奈良百済に伝播するために百済住民を大挙移住させ、403年(応神14年)2月、百済の縫衣工女が奈良百済に渡っていったが、これが日本列島で衣縫の元祖である。工女が一人で行ったのではなく大移住集団の一員として行ったのである。このように百済の大移住集団は、日本列島全域120か所余りの県に散って暮らしながら百済の文物を伝播した。当時の倭は衣服もない新天地の島で、このような先進の文化を持つ百済の大民族集団が移住したという事実は、まさに百済が日本列島において開拓をし、さらには日本列島全域を建設したことを立証するものである。
百済は王子だけでなく、百済の文物を倭の地の奈良百済に伝播するために百済住民を大挙移住させ、403年(応神14年)2月、百済の縫衣工女が奈良百済に渡っていったが、これが日本列島で衣縫の元祖である。工女が一人で行ったのではなく大移住集団の一員として行ったのである。このように百済の大移住集団は、日本列島全域120か所余りの県に散って暮らしながら百済の文物を伝播した。当時の倭は衣服もない新天地の島で、このような先進の文化を持つ百済の大民族集団が移住したという事実は、まさに百済が日本列島において開拓をし、さらには日本列島全域を建設したことを立証するものである。
文字もなくて衣服もない原始生活をしていた原住民の世界に、文字や各種の技術と馬など高度な先進文化を持つ百済の大移住集団が日本列島に上陸したとすれば、当然、この集団から統治者である王や天皇が出てこなければならない。したがって、倭の地の奈良百済の応神天皇(15代天皇)も百済住民の大移住集団から出た天皇であり、同時に奈良百済初の天皇であった。
475年、高句麗の攻撃で百済の都城が崩れて蓋鹵王が捕えられて死ぬ時、蓋鹵王の王子はすべて死んだが、サマ(島)は倭の奈良百済にあったので死を免れて王位に上がることができた。
475年、高句麗の攻撃で百済の都城が崩れて蓋鹵王が捕えられて死ぬ時、蓋鹵王の王子はすべて死んだが、サマ(島)は倭の奈良百済にあったので死を免れて王位に上がることができた。
この頃、百済の状況はどうであったのであろうか? 506年、大陸百済には伝染病が流行り、3月から5月まで雨が降らない春の雨不足に農作物が枯れて国民が飢え、国庫から救済しなければならなかった。高句麗はこの機会を逃さず、7月に靺鞨をそそのかして百済の高木城を攻撃すると高木城が崩れて600人余りの死傷者を出し、200人余りが捕虜として捉えられていった。
しかし、高句麗は4か月後の11月、再び百済の馬首城を攻撃したが大雪が降ると攻撃をできずに退却した。百済武寧王は507年5月、高木城南側に木柵を建て、長嶺城を築いて靺鞨の攻撃に備えると、予想通り高句麗は靺鞨と連合戦線を広げて攻撃してきたが、特別な成果を上げることができないまま帰ったが、その年10月、高句麗は百済の漢山城を攻撃するために黄岳山の麓に兵力を集結させていたが、百済武寧王は自らの軍隊を率いて高句麗軍に対抗して戦うと高句麗軍は退却したが、高句麗と百済の頻繁な衝突は続いた。
512年9月、加弗城で高句麗軍の奇襲に大陸百済軍は押されて加弗城を奪われ、再び山城も奪われる危機に陥ると、武寧王は騎馬兵4千を直接率いて葦川北側で高句麗軍と激戦を繰り広げた。
この戦争で勝利した百済軍は士気が蘇り、百済武寧王は自信を持って梁国に使臣を送り、百済の地位を高める表文を上げると、梁国王は武寧王に使持節都督百済諸軍事寧東大将軍の封書を下すと、百済の国際的な地位は非常に高かまった。倭の地の奈良百済も小王国と戦って領土拡張に出て、日本国建設の土台を築いていった。この時、奈良百済の領域は四国島と向かい合う本州の凸のように出た奈良県が中心であった。(機械翻訳 若干修正)

日韓がタブーにする半島の歴史
室谷 克実


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