(朝日新聞 2015/05/14)
在日の韓国・朝鮮人が暮らす京都府宇治市のウトロ地区。今年に入り、韓国や日本国内から訪れる人が相次いでいる。なぜなのか。
太平洋戦争中、国策の京都飛行場建設に動員された朝鮮人の労働者らが敷地の一角で生活した。もとの地名は「宇土口」だったが、地域の人々が呼んだという「ウトロ」が戦後に定着。敗戦時には約1300人がいたとされ、今も地区(約2・1ヘクタール)には55世帯・約130人が暮らす。立ち退きを求められたが、2011年までに韓国政府系財団の出資や寄付金などで一部の土地を買収。宇治市、京都府、国が公営住宅2棟を建てることが決まった。
住宅建設や周辺の整備に伴い、「飯場」跡も残る建物の取り壊しが早ければ6月にも始まる。「記録や記憶に残したい」。そう考える人たちが次々と足を運ぶようになった。
著名タレントのウトロ訪問が韓国の人気テレビ番組で放映された昨秋以降、韓国からは修学旅行生や数十人規模のグループがたびたび訪れる。2月には釜山の東亜大建築科生ら12人が路地で写真を撮影したり、巻き尺で建物の寸法を測ったりした。ジオラマを作り、釜山でウトロの変遷を紹介する展示会を開くためだ。
学生らに話をしたのは姜景南(カンギョンナム)さん(90)。母と朝鮮半島南部の泗川(サチョン)から父がいた大阪に来たこと。戦争末期、空襲から逃れてウトロにたどり着いたこと。飯場跡のバラックで暮らし、子ども6人を育てたこと。チャ・ユンジョンさん(21)は「在日の歴史を学べました。おばあさんたちが懸命に生活してきた痕跡がなくなるのは残念」と話した。韓国からの訪問客の案内役を務める南山城同胞生活相談センター代表の金秀煥(キムスファン)さん(40)は「住民たちも、また来たなあと喜んでいます」と話す。
今月上旬には韓国KBSテレビのクルーが訪れ、俳優のユン・ユソンさんが住民らと交流する様子を撮影した。在外コリアンを紹介する特集番組で、プロデューサーのキム・アリさんは「撤去が始まれば風景が変わる。記録しておくのは歴史的にも意味がある」と話した。
国内からも訪れる。3月には、福岡などの在日コリアンと日本人の計5人が来た。北九州市の在日2世の裵東録(ペトンノク)さん(72)は「八幡にあった朝鮮人集落を思い出しました。私もこんな家に住んでたけん」。案内した「ウトロを守る会」の斎藤正樹さん(66)は「戦争が終わると動員された朝鮮人は見捨てられ、地区の人々は貧困に苦しんだ。ウトロはその歴史を伝える貴重な教材です」と語る。
ちゃんと、こうしたこと↓も伝えていかないとね。
(朝鮮日報 2007/09/21) (略) ◆住民たちはどのようにしてウトロへ来たのか ウトロを強制徴用と関係付ける見方が多い。日本政府による徴用令により1941年から始まった韓国人強制労働の犠牲者、またはその子孫だというのだ。ウトロ地区の形成は、戦時中に軍の飛行場建設労働者たちが不毛の地だったこの地域に仮住まいを始めたことがきっかけだった。飛行場の建設が始まったのは1941年。こうして強制徴用とウトロを関連付ける先入観が生じた。 しかし、この地で働いていた韓国人労働者1300人は、当時の徴用令により連れて来られたわけではない。 ウトロ国際対策会議ホームページには「いくつかの誤解について明らかにする。(ウトロ地区の韓国人労働者たちは)銃剣による直接の武力により移住したわけではなかったとしても、故郷で生活ができなくなった植民地の国民が、経済的問題などさまざまな理由により、自らの思いとは関係なく植民地宗主国へと移住したケース」と説明している。 韓国の国務総理傘下「日帝強占下での強制動員被害者の真相究明委員会」も昨年末の報告書で、「強制徴用者ではなく、日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明らかにした。1930年代末、さまざまな理由で植民地朝鮮の経済的貧困を避けるために日本に渡った人たちだったということだ。 もちろん昨年12月に死亡したウトロ地区住民のチェ・ジョンギュさんのように、本来は日本の他の地域の炭鉱に強制徴用され、後日ウトロへと移住した住民もいる。しかし「徴用かどうか」は、ウトロの歴史的な意味を強調しようとして事実関係を明らかにしてこなかった韓国のマスコミの過ちであり、本質的な問題ではない。ウトロ地区の住民たちは日本による植民地政策の被害者であり、最後まで韓国の国籍を放棄しなかった韓国人であるという事実は変わっていない。 ◆ウトロ地区問題はなぜ起こったのか ウトロ地区が国有地だったなら早期に解決していたという意見もある。国有地ならば、どのような形であれ長期間居住していれば住民に居住権を認めるケースが多かったからだ。しかし、ウトロは名目上軍の飛行場建設を引き受けた日本国際航空工業(国営企業)の所有地だった。戦後に軍の飛行場建設が中断した後も、ウトロ地区は企業所有のままだった。 その後ウトロ地区は多くの曲折を経た。戦後、軍需企業からバスやトラックを製造する自動車会社へと変わった日本国際航空工業は1962年に日産車体と合併し、ウトロ地区も日産の所有となった。日産車体は、韓国でも自動車を販売している日産自動車系列だ。 その後、ウトロ地区は個人所有を経て1987年、西日本殖産という不動産会社に転売され今日に至っている。現在、ウトロ地区の住民と土地売却交渉を行っているのは西日本殖産だ。 しかし、この過程で恥ずべきことが起こった。 日産車体からウトロ地区の土地を買い取って西日本殖産に転売した個人とは、ウトロに住む在日韓国人、A氏だったのだ。売却金は3億円。A氏=許昌九(通名:平山桝夫) A氏に資金を融資したのも在日韓国人団体である在日本大韓民国民団(民団)」の幹部B氏であり、そのB氏がウトロ地区を買い取るために急きょ設立したのが西日本殖産だった。B氏=河炳旭 A氏は日産からウトロ地区の土地を買い入れた直後、「土地を4億円で買い取った」と主張し、西日本殖産(B氏)から4億4500万円を受け取り転売した。このように同胞をだまして巨額を手にしたA氏は夜逃げし、B氏もまた西日本殖産を1988年に日本の企業に売却、ウトロから手を引いた。当時B氏がいくらで西日本殖産(ウトロ地区)を売ったのかは明らかではない。 また別の同胞もいる。2004年、ウトロ地区の所有権は一時西日本殖産から井上正美という個人に移った。井上氏は05年5月、韓国のマスコミとのインタビューで自らを在日3世と主張し、韓国政府にウトロ地区を5億5000万円で買い取るよう要求、韓国政府による買い上げ論議に火をつけた人物だ。当時の潘基文(パン・ギムン)外交通商部長官が国会で政府による支援について言及したのもその年の11月だった。 しかし日本の裁判所は06年9月、井上氏の所有権は無効との最終的な判決を下した。契約額が社会通念に比べて非常に低額という事実を理由に、売買契約は西日本殖産職員による職権乱用にあたるとの判決を下したのだ。契約額は明らかではないが、当時の日本の新聞を調べると2000万円だったとの記事がある。井上氏は後日、ウトロ地区の土地売買で暴力行為を行ったとして日本の警察に逮捕された。(略) 記事全文→京都の『ウトロ問題』では、在日が在日を騙す恥ずべきことが起きていたニダ! |

