(長崎新聞 2017/10/31)

 日本と韓国の民間団体や自治体が共同申請していた「朝鮮通信使に関する記録」が「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録される見通しになった。約4年にわたる準備の最中には、申請する資料をめぐり日韓の意見が対立することもあった。道しるべになったのは、先人たちが実践した「誠信交隣(せいしんこうりん)」の理念だ。関係者は相手の立場を尊重して意見の相違を乗り越えた。

 日韓が共同申請した資料は333点。だが、朝鮮通信使縁地連絡協議会(縁地連)をはじめ、日本側が登録を望んでいた、ある資料が含まれていない。対馬藩初代藩主、宗義智(そうよしとし)(1568~1615年)の肖像画だ。

 朝鮮と友好関係を築いていた義智は、豊臣秀吉の朝鮮出兵命令に心ならずも従った。秀吉が死ぬと、徳川家康の意向を受けて朝鮮との講和交渉に尽力した。国書を偽造・改ざんするなど大変な苦労をして交渉をまとめ上げ、朝鮮通信使の来日を実現。通信使が往来した200余年にわたる日朝友好の礎を築いた。

 縁地連理事長の松原一征(かずゆき)さん(72)は「平和友好を取り戻そうとした義智公の努力は評価して余りある」と話す。通信使の縁を取り持った対馬藩ゆかりの資料として、義智肖像画が申請リストに入ることが重要と考えていた。

 だが、韓国側にとって秀吉の朝鮮出兵は許されない侵略行為。出兵に加わった義智の肖像画がリストに入れば、反対世論に火が付く恐れがあった。韓国側学術委員会の姜南周(カンナムジュ)委員長(78)は「義智肖像画を入れるようなら共同申請は難しくなる」と強く懸念した。

 意見の相違を打開したのは、日朝友好に尽力した対馬藩の儒学者、雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)(1668~1755年)の精神だった。芳洲は朝鮮との外交で「誠信交隣」を掲げ、「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」を実践した。

 芳洲を尊敬する松原さんは「相手を理解することが大事だ。自分たちの物差しだけで物事を考えてはいけない」と韓国側の立場を尊重し、義智肖像画をリストから外すことを決断した。日本側学術委員会の仲尾宏委員長(81)は「共同申請を実現するための大局的な判断だった」と振り返る。

 隣同士でありながら、歴史認識をめぐり溝がなかなか埋まらない日韓両国。松原さんには「日韓の閉塞(へいそく)感を打ち破るのは、両国平和の象徴である朝鮮通信使しかない」との信念がある。韓国側申請者の釜山文化財団の代表理事を務める柳鐘穆(ユジョンモク)さん(69)も「朝鮮通信使は日韓共同の歴史。両国の平和を祈って交流を重ねることが大切だ」と同じ思いを口にする。先人の思いを受け継ぎ、日韓がつむいだ友好の歴史が「世界の記憶」になる。


平和維持の知恵が凝縮 曲折を経て共通遺産選定
(西日本新聞 2017/11/01)

(略)議論は2年近くに及び、度々、意見が対立した。外交文書の核となる国書を巡っては徳川将軍が朝鮮国王に宛てた日本国書の原本が見つかっておらず、日本に残る朝鮮国書だけの申請に韓国側が難色を示し、日本側が「貴重な外交記録で外せない」と説き伏せた。

 また、初代対馬藩主宗義智(よしとし)について日本側は「通信使再開に貢献した人物」と評価し、肖像画を申請リストに入れるつもりだった。だが、韓国側は義智が文禄・慶長の役に参加した武将という点を重視し、自国の世論を懸念して猛反発。結局、申請は見送られた。

 ほかにも対馬藩の記録「宗家文書」が入っていないなど登録リストは朝鮮通信使関連資料を網羅したものではない。それでも歴史認識問題による摩擦が絶えない日韓間で、双方が共有できる歴史的遺産を編み出した意義は大きい。(略)


朝鮮通信使(ウィキペディア)

江戸時代の朝鮮通信使

再開交渉

再開にあたっては、主として対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介にあたった。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、文禄・慶長の役による疲弊もあり、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。対馬の宗氏は日本軍撤退の直後から朝鮮に接触をはかるが、使者は戻らなかった。そこで豊臣政権時代にも朝鮮への使者だった禅僧の景轍玄蘇と、宗義智が交渉にあたった。景轍玄蘇の没後は、規伯玄方がこれを継ぐ。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造を行い、朝鮮側使者も偽造を黙認する。のちに、対馬藩の家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、密告した柳川は津軽へ流罪、偽造に関わった玄方は盛岡藩へ配流された。この国書偽造をめぐる事件は柳川一件と呼ばれており、以後は朝鮮との交渉役の禅僧として朝鮮修文職が設けられた。対馬藩の交渉によって使者が実現して、1604年(慶長9年・宣祖37年)には朝鮮が僧の惟政と孫文或を対馬へ送る。宗義智は使者2名を徳川家康と秀忠に会見させて、幕府はすみやかな修好回復を希望した。

回答兼刷還使の開始

1607年(慶長12年・宣祖40年)には、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され、6月29日(旧暦5月6日)に江戸で将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は、回答兼刷還使とされている。回答とは国書に答える意味、刷還とは日本に残っている朝鮮人の捕虜を送還する意味がある。こうして日本側からの国書による回答(謝罪)を求め、日本に連れ去られた被虜人を朝鮮へ連れ帰ることを目的とした。回答の求めに対し、江戸幕府が国書を送った形跡はないが、上記のように対馬藩は国書を偽造して関係を修復しようとした。被虜人については全員の送還を朝鮮は求めて、第1次で約1300人が帰国した。しかし、南蛮などに奴隷として売られた者、滞在の長期化で日本に家族ができた者もおり、第3次の頃には本人が死去して子や孫の世代になっていた。帰国をしたのは6000人から7500人ほどとされる。その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、江戸幕府の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。(略)
柳川一件(ウィキペディア)

事件の経緯

16世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶した。戦後、日本で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。

朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。使節は江戸城で2代将軍・秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条を締結させた。(略)


こんな主要人物でさえ“国民情緒”が許さないとして外すんですね。