(毎日経済 韓国語 2017/11/30)
コロンブスによってアメリカ大陸が発見され、ここに行ってきヨーロッパ人によって新しい文物が伝播した。代表的な植物ではタバコ、サツマイモ、カカオ、トウモロコシ、パイナップルなどがある。その中でサツマイモは16世紀以前から中国に入ってきて栽培が始まった作物だが、当時、朝鮮は明からこのサツマイモ品種を国内に持ち込まなかった。これに比べ、日本は早くからポルトガルやオランダ商人と交流する過程で自然にサツマイモの栽培法を知り、17世紀からサツマイモを栽培した。
朝鮮がサツマイモを知り、初めて導入したのは18世紀中葉で、英祖(ヨンジョ 朝鮮第21代国王)の命を受けて日本に通信使として行ってきた趙曮(チョ・オム)が日本から持ってきた。(1764年)
当時、朝鮮は仁祖(インジョ)、顕宗(ヒョンジョン、粛宗(スクチョン)、英祖、純祖(スンジョ)を経ながら、大飢饉が襲い、多くの民が飢えていた。これを不憫に思っていた趙曮が日本,対馬の佐須奈を訪問した時に発見したサツマイモの種子を釜山に持ってきて栽培を勧めたが、これが朝鮮にサツマイモが入ってくるようになった契機であった。
サツマイモを初めて持ってきた当時の朝鮮の状況は、数年間続いた旱魃のために飢えに疲れ、子供を捨てたり、食べ物を求めて盗みも厭わない悲惨な現実に直面しており、王や臣下は飢謹を解決する方法を探している状況だった。
このような時期に持ってきたサツマイモを趙曮は朝鮮の官僚に植栽を勧奨し、すぐに栄養分も多くて飢謹を解決できる救荒作物であるサツマイモの魅力に虜になった。当時、東莱府使であった姜必履(カン・ピルリ)はサツマイモに惚れて、これを栽培して収穫、保管する方法を説明した『甘藷譜』まで著述した。
大飢饉の孝子植物であるサツマイモが広く知られ、救荒作物としての役割を忠実に果たしていくかと思われた。だが、サツマイモが伝来して30年が過ぎた正祖(チョンジョ)の時、湖南慰諭使であった徐栄輔(ソ・ヨンボ)は民がサツマイモの植栽を敬遠しているという報告をした。(1794年)
理由は、貪官汚吏と衙前(地方官衙の吏属(正規ではない下級役人))の収奪のためだった。民に多大な量のサツマイモを収穫させたり、収穫したサツマイモをすべて収奪していく事態まで生じると、民はむしろサツマイモの栽培を敬遠するほかはなかった。
民を救うために持ってきたサツマイモが商品作物になり、お金のある人だけが食べることができる商品に変質したのだ。
民を救うために持ってきたサツマイモが商品作物になり、お金のある人だけが食べることができる商品に変質したのだ。
今は多様な品種改良などを通じて健康食として、または、栄養食として多くの人々の愛を受けているサツマイモ。だが、飢謹に苦しんでいた当時の朝鮮の民には救荒作物であり、同時に収奪の対象になったりもした『痛みの植物』としても記憶されている。(機械翻訳 若干修正)
