(読売新聞 2019/02/22)

◇「帆布で小屋、日本製つり具」

 県は22日、「竹島の日」を迎える。韓国が不法占拠を続ける竹島(隠岐の島町)に1953年6月、本紙の記者ら3人が渡航した。当時の記事は、絶滅したとされるニホンアシカとの遭遇や、鬱陵島(ウルルンド)からの漁民が滞在する様子を伝えている。竹島問題の研究者は、「改めて読み返せば、戦後に竹島問題が起きた背景が分かる」としている。(佐藤祐理)

 同年6月26日午前10時頃、船上にいた本紙の青木、高梨の両記者と、写真部員だった三石記者の前に、煙ったガスの中から竹島が浮かび上がった。現在の隠岐の島町西郷地区から広谷元次郎さん(当時65)の渡航船で約15時間がかりだった。

 「あれがゴトク島。これがロウソク島」。同年6月28日付の記事では、広谷さんが船上で、竹島を構成する男島(西島)と、女島(東島)の間にある五徳島(洞岩)などを説明。「ゴトク島は巨大な岩石の下部が、四ッ足をふんまえたように浸食されたもので、名前は広谷さんが勝手につけた」という。研究者によると記事で五徳島の由来が初めて確認できたという。

 また記者は、竹島周辺でニホンアシカを目撃。日の出とともに島を離れて沖へ行き、日が暮れると島に戻るという生態を紹介している。竹島では1950年代まで群れで生息していたが、県内では既に絶滅したとされている。

 東島と西島の間にさしかかると、「島陰から数人の男が飛び出し、盛んに手を振りはじめた。伝馬船を漕(こ)ぎ寄せて来た男たちはヒゲののびた顔に鉢巻をして突然挙手の礼をした」。

 記事は、鬱陵島からワカメ取りに来た韓国人6人に出会い、たどたどしい日本語で話しかけられた様子も描く。県漁政課などの職員が同年6月20~27日に竹島を訪れた記録によると、6人は、10人で乗ってきた船2隻のうち1隻が壊れたが、迎えの母船が来ないため竹島に滞在していたという。

 竹島に上陸した記者はこう記す。「韓国人たちは帆布で小屋掛けをして暮らしていた。小屋には日本製のイカつり道具があり、ワカメ、アワビと交換に与えた飯のおかずは味噌(みそ)だった」

 竹島には、米軍の爆撃訓練で亡くなった韓国の漁民を慰霊する「独島遭難漁民慰霊碑」があり、目にした記者は「島は知らない間に韓国領土となってしまっていたという感じである」と述懐している。

 広谷さんが「ここは日本領だ」と言うと、漁民は「ワカリマセン」。記者も漁民に尋ねるが、「朝鮮動乱、反共捕虜釈放、竹島帰属問題などはチンプンカンプン『ワカリマセン』である」と記されている。

 県の記録でも、6人のうち最年長の男性は当時、すでに約10年間、竹島で漁業をしていたが、竹島がどこの領土なのかという法的な認識がなかったという。

 記者は竹島に4時間滞在して帰途についた。県の記録では、記者と同時期に竹島に上陸した県の職員は「島根県穏地郡五箇村竹島」という標柱を立てた。

 領土問題などを研究する「日本国際問題研究所」(東京都)から委託を受けた島根大法文学部の舩杉力修准教授は記事を分析し、「66年前、鬱陵島からの漁師が竹島にいた時点で、政府がすぐに対策を講じていたら、韓国の不法占拠につながらなかったのではないか」と語る。

 平和条約で日本領

 当時、竹島は五箇村(現・隠岐の島町)だった。村の漁師は以前から竹島で漁猟を行っていたが、太平洋戦争中に中断。終戦後の1946年には連合国軍総司令部(GHQ)が、日本の漁船が竹島の12カイリ以内に近付くことを禁じた。

 52年1月には韓国が公海上に境界線の李承晩ラインを一方的に設けたが、同年4月には竹島を日本領に認めたサンフランシスコ平和条約が発効。県は53年6月10日に隠岐の代表者3人にアシカ猟の許可を与えていた。