(京郷新聞 韓国語 2019/03/04)
旧韓末の朝鮮に進出した日本実業家の中に大倉喜八郎(1837~1928)という人物がいる。1873年、日本で大成[大倉土木組 現・大成建設]という会社を立ち上げた大倉は、清日戦争の時に武器と軍需物資を売って富豪になった人物だ。そのため“死の商人”というあだ名を持っていた。その大倉は、旧韓末に釜山に進出して高利貸金業と貿易業を兼ね始めた。そのような大倉は、旧韓末から日帝強占期まで白昼の真昼も人夫を連れ回して朝鮮の古墳を盗掘し、1000点余り以上の文化財を日本に持ち出したことで悪名が高い。
大倉が持ち出した韓国文化財は、いわゆる『大倉コレクション』という名前で知られている。この大倉コレクションは、日本初の私立博物館である大倉集古館(1917年開館)に所蔵されている。大倉が持ち出した文化財の中では、利川五層石塔[利川郡浄土寺址 五重塔]と平壌栗里寺址石塔[大同郡栗里寺址 八角石塔]が代表的だ。搬出する際、このように大きな石塔まで解体して持ち出したのだ。
大倉が持ち出した文化財の中にもう一つの遺物があるが、それが乾漆菩薩坐像だ。高麗後期~朝鮮初期の作品として知られている。ところが、この大倉集古館には、この乾漆菩薩坐像の元の所蔵先や入手の経緯、入手当時の状態などに関するどんな記録も残っていない。しかし「完全犯罪」がどこにあるだろうか。大韓民国の国立中央博物館に、いわゆる大倉集古館所蔵乾漆坐像ととても似た乾漆坐像が1点残っているからだ。国立中央博物館所蔵の乾漆菩薩坐像は『徳寿5547』という遺物番号が付いている。

▲国立中央博物館に所蔵されている『乾漆菩薩坐像』。1915年に李王家博物館が日本人骨董商から購入した遺物だ。ところが、この遺物と対を成す菩薩坐像は日本に搬出された。国立中央博物館所蔵

▲日本大倉集古館に所蔵されている乾漆坐像、国立中央博物館所蔵品と対を成す作品だ。日本人大倉喜八郎が日本に持ち出した。しかし、入手の経緯については全く知られていない。大倉集古館所蔵
徳寿宮美術館の前身である李王家博物館が1915年に日本人骨董商である浦谷清次から購入したという記録が残っている。当時の価格は400円だった。1881年から日本で骨董品売買業を始めた浦谷は、1912年からソウルに支店を置き、1917年まで李王家博物館に中国と韓国の陶磁器と仏像、螺鈿漆器、仏経など数十点を売り渡した。朝鮮総督府博物館も浦谷から朝鮮白磁1点を購入した記録もある。1918年に刊行された『李王家博物館所蔵写真帖上巻』に乾漆菩薩坐像の購入後の展示の様子を撮った写真が掲載されている。
それならなぜ、似た乾漆坐像が大倉集古館に所蔵されているのだろうか。学界は2つの彫刻像の大きさと製作技法、細部的な特徴が非常に似ており、手印(ボル・菩薩の手の形)だけ反対のため、同じ工房で製作された“双子菩薩像”は本来ある本尊の脇侍と推定してきた。
ところで、国立中央博物館保存科学部が最近、博物館所蔵品である『徳寿5547』の乾漆坐像をCT(コンピュータ断層)映像などを通じて分析した結果、そうした学界の推定が事実と明らかになった。国立中央博物館が刊行した『国立中央博物館所蔵仏教彫刻調査報告3』は国立中央博物館所蔵乾漆坐像と大倉集古館所蔵乾漆坐像が「対を成す脇侍菩薩像」という結論を下した。
この菩薩像は木材である木心を使わず、幾重にも布を張って漆を繰り返した後、金箔を施して製作した。このような技法を『乾漆』という。中央博物館所蔵乾漆菩薩坐像は宝冠を含めて124.5㎝で、乾漆技法で製作された菩薩像の中で立像を除けば最も大き。今回の分析の結果、布は8~10重が観察された。瞳には石英をはめ、耳は別途の木で作って付着したが、釘を使わずに接着剤を使った。両手も木で削って組み入れた。宝冠は前面2枚、裏面1枚の合計3枚の金属版を結合して作った。前面の装飾版が幾重にも並んでいるのが特徴だ。このような製作方式の特徴は、大倉集古館所蔵乾漆坐像と非常に似ている。
また、乾漆造は土で彫塑像を作り、乾漆を張った後、彫塑像を取り出す形式で製作する。ところで、2つの乾漆坐像とも後頭部を切開した後、内部から土で作られた彫塑像を取り出す形式が同じだった。すなわち、像の下部と後頭部を通じて土(内型土)を取り除き、仕上げ処理をしていない点や、取り除いて残った土が薄い膜を作った程度が国立中央博物館所蔵品と大倉集古館所蔵品が一致した。それのみではなかった。胸装飾の模様構成も双子のようだった。

▲2つの乾漆造の比較撮影映像。像を完成した後、その中の土(彫塑像)を取り出す方式が同じだ。後頭部を切開してその中から土を取り除いた後、仕上げ処理をしていない点や、取り除いて残った土が薄い膜を作った程度が全く同じだ。国立中央博物館提供
カン・サムヘ国立中央博物館美術部学芸研究家は「こう特徴を比較すると、2つの像は同じ匠人(達)が作ったと判断される」としながら「おそらく一対の脇侍菩薩(本尊仏を左右で補佐する菩薩)として構成するために製作された仏像だろう」と話した。
大倉は乾漆菩薩坐像を日本に搬出する際、何の痕跡も残さなかった。韓日両国に似た物が残っていて、ただ「怪しい。同じ遺物ではないのか」という憶測だけが積み重なってきた。心証はあったが物証がないので何とも言いようがなかった。
しかし結局、100年余り後にCT(コンピュータ断層)撮影という先端科学分析のおかげで尻尾が捕えられてしまった。(機械翻訳 若干修正)
しかし結局、100年余り後にCT(コンピュータ断層)撮影という先端科学分析のおかげで尻尾が捕えられてしまった。(機械翻訳 若干修正)
仮に対を成すものとしても、大倉集古館側に記録がないだけで、韓国側には「当時、売り買いされていた」記録があるんですから、当時の状況はそうだったというだけじゃないですかね。
ちなみに今年の秋まで施設改修工事のため休館中です。
2014年04月02日
2018年08月15日

いつもの妄想と願望でしょ
specificasia
が
しました