(大田日報 韓国語 2009/08/27)
?プロローグ-探査を始めて
昨年6月忠南道(チュンナムド)を訪問した荒井正吾奈良県知事は古代百済から始まった韓流熱風を象徴的に表現して関心を集めた。彼は「韓国の“つまらない”という言葉は日本語で“百済がない”という言葉と同じ意味」と紹介した。それと共に「百済の文物が伝播した奈良県の子孫として誇りと大きな自負心を感じる」と語った。荒井知事が話した「百済がない」とは日本語で「百濟無い」だ。「百済から日本に渡ってきたことでなければ価値がない」という意味だ。最上の百済称賛が現職日本知事から出たという点は注目すべきことだ。
2004年8月にはより象徴的な事件(?)があった。明仁日王の堂叔である朝香誠彦王子が百済25代武寧(ムリョン)王の王陵を訪れ法事を行って帰った。古代百済と倭の交流以後、日本王族の百済王陵参拝は初めて。朝香誠彦王子は日本王室から直接持ってきた古代日本王室の香を立て、お供えを上げて武寧王の霊前に頭を下げて礼をした。イキヒト日王が「私のからだにも韓国人の血が流れる」と公言して3年後のことだ。
今年4月には百済第26代聖王の第3王子琳聖太子の45代直系子孫の大内公夫氏と孝子夫婦が扶余陵山里(ヌンサンリ)第二古墳(百済聖王の陵と推定)にひざまずいて「数多くの歳月をすぎて、待望の先祖の土地に今帰ってきました」として祭文を上げた。大内一族の来歴と琳聖太子の古代日本での地位は何だろうか。日本の史学者らは大内一族が百済聖王の琳聖太子の直系子孫で南北朝時代まで栄え、琳聖太子は西暦611年山口県に上陸して、この地方を掌握したと伝える。奈良県知事が力説した「クダラナイ」と日本の百済王族子孫らの来韓は、古代百済と倭の政治・外交的関係と文化的交流の実体を最も克明に見せる例だ。
韓半島と日本列島の交流は新石器時代からなされた。より本格的な日本への進出は百済時代になる。以後、百済滅亡(660年)まで古代日本は百済との持続的な交流を通じて、古代国家形成の基盤を準備した。百済から伝来した新技術と新文化の受け入れは日本社会発展の原動力だった。土器と金工芸品の製作技術、仏教文化の伝播、百済職人と僧侶の大挙進出は古代日本に革新的な変化をもたらした。
日本が自慢する古代文化と国宝級の遺跡、遺物が百済交流の産物という事実はよく知られている。(中略)
しかし残念なことに日本の中の百済文化発掘と再照明はまだ開始段階だ。国内歴史学界よりは日本によって、漸進的な究明がなされて実体に近づきつつあるというのが国内歴史学界の自省論だ。より本質的な問題は日本の歴史歪曲だ。古事記と日本書紀を土台にした日本古代史研究は支配イデオロギーが込められて対韓優越思想に変質するのが常であった。壬辰倭乱当時の三韓征伐論でも近代日帝侵略期の征韓論でも日鮮同祖論などがその例だ。その上日本の中の百済遺跡、遺物に対しては純粋な自国の歴史・文化的産物とか、百済ではなく中国の影響と解釈する場合も一度や二度ではない。(中略)
百済精神宣揚と百済文化世界化を通じて百済文化圏のアイデンティティを確立することはすなわち文化強国であり海上王国、交流王国の百済の堂々とした歴史を現代的に継承することで、これは日本の中の百済歴史文化の発掘と研究、再照明から始まらなければならない。
大田日報社が創刊59周年をむかえ、忠南道歴史文化研究院と共同で展開する「日本の中の百済魂」は、百済文化圏メディアでは初めて試みる日本国内の百済遺物、遺跡に対する本格探査企画だ。現地探査の成果は本紙に10回にわけて集中連載される。(翻訳 2ch 蚯蚓φ氏)
>昨年6月忠南道(チュンナムド)を訪問した荒井正吾奈良県知事
あらい日誌 (奈良県 2008/06/09)
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本気で言ったのか、リップサービスで言ったのか、ダジャレのつもりで言ったのかわかりませんが、すぐ、曲解して自分らに都合の良いように解釈して、いつの間にか“歴史的事実”になるので、余計な発言はしないで欲しいですね。
しかし相変わらず、日本を引き合いに出さないと、自国の歴史を評価する事も出来ないんですね。

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何の文献も実物も残っていないから、
何が百済の文化だなどと説明のし様がない。
しかしながら、百済の影響に違いないと決め付けたがっている韓国人。
ただ、どちらにせよ、韓国人と百済人は別系統の民族であるので、
韓国人がホルホルする筋合いはない。
specificasia
が
しました