間島協約から100年、間島を取り戻す運動が活発化

(聯合ニュース 2009/09/04)   












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咸鏡北道に含まれた間島(資料写真)。『大韓新地志附地図』鉄版本(1907)に載っている大韓全図にも“北間島”が咸鏡北道内に含まれている。

 日本と清の間で間島協約が結ばれてから4日でちょうど100年を迎え、ネットユーザーや民間団体を中心に協約を無効とし、間島(白頭山北側の旧満州地域)を取り戻そうという動きが活発になっている。




 間島は清と朝鮮が互いに自国領土と主張し、長きにわたり係争問題となっていたが、朝鮮の外交権を握った日本は、1909年に清での鉄道敷設権などと引き換えに清の間島領有を認める間島協約を結んだ。



 間島領有権回復のための国民運動本部は同日に記者会見を開き、領有権回復に向けた政府と国会レベルの対応を促し、国際司法裁判所に提訴するための国民請願運動を宣布することを決めた。韓国間島学会、国際法協会韓国支部などの団体も同日午後、講演会や「間島の日」行事を開催する。



 政界の動きも活発だ。先月28日、与野党の国会議員50人は「間島協約の原泉的無効確認に関する決議案」を国会外交通商統一委員会に提出した。



 代表発議した自由先進党の李明洙(イ・ミョンス)議員は「間島協約の根拠である1905年の乙巳条約(第2次韓日協約)が国際法上、原泉的に無効であるため、同条約に基づき締結された間島協約も源泉無効」と強調した。



 こうした運動に火がついたのは、一国が領土を占領してから100年が経てば領有権が認められるという「100年時効説」が契機となった。一部のネットユーザーは、100年時効説によれば2009年9月4日以降は間島が完全に中国領土になっていまうとし、これまで異議を唱えなかった歴代政権や政治家らを強く批判しながら、民間レベルでの運動だけでも展開すべきだと主張している。



 しかし、こうした主張は国際法上の根拠が乏しい怪談にすぎないというのが学界の見解だ。間島問題に詳しい啓明大学の李盛煥(イ・ソンファン)教授は「100年時効説は1997年に白山学会の討論会で初めて取り上げられたと記憶しているが、関心を高めるため一部内容をやや誇張し、問題提起されたものが広範囲に広がり定説として定着した」と説明した。




政府、間島問題をICJに提訴せよ (聯合ニュース 韓国語 2009/09/04)



民族団体で成り立つ『間島領有権回復のための国民運動本部』は間島協約締結100年を迎えた4日、間島回復国民請願運動を宣言して政府と国会次元の対応を促した。



国民運動本部はこの日午前、ソウル市光化門東和免税店の前で記者会見を行い「政府が外交的に敏感だという理由で間島問題を無視する間、中国は間島を実質的に支配してきたし東北工程を通じて永久支配を試みている」として「政府・国会は領土主権を守ることが出来ない責任を痛感して領有権回復に積極的に出ろ」と要求した。



本部は「間島協約は清国と日本の間で結ばれた条約で、当事国の私たちがその主権をあきらめたことがなく、当初の協約自体がすでに無効になった乙巳保護条約に基づいて締結されたもので国際法上どんな拘束力も持つことができない」と主張した。



また「1951年に締結された中日平和条約でも、1941年以前に締結したすべての条約と協約の無効化を明示した」と付け加えた。



国民運動本部は引き続き「間島問題を国際社会に知らせて解決するためには民間次元の努力だけでなく、政府次元の国際訴訟が進行されなければならない」として「政府が間島問題を国際司法裁判所(ICJ)に提訴する時まで国民請願運動を繰り広げるだろう」と話した。



あわせて、間島領有権回復のための社会各団体の連帯会議と、政府次元の民官対策委員会構成を提案することもした。



間島協約は1909年9月4日、日帝と清国の間で締結されたもので、日帝は南満洲鉄道敷設権などの利権を得る代価として間島に対する清の領有権を認めた。(機械翻訳 若干修正)





>間島は清と朝鮮が互いに自国領土と主張し、長きにわたり係争問題となっていた



↑とあるのに、なんで議員も民間団体も、「間島協約」が無効になれば間島が韓国(北朝鮮)のものになる、という前提なんですかね?













間島:かんとう (Wikipedia)一部抜粋


越境

もともと満州族の清朝は白頭山一帯を祖先の地として封禁地としていたが、人煙稀な土地にいつのまにか朝鮮農民が入り込んでしまったものである
。



清朝が1881年琿春に招墾局を設置して可耕地を調査したところ、すでに多くの朝鮮農民が入り込んでいた。清朝は朝鮮に越境民をすべて引き上げさせるよう要求したが、越境農民の数が多く、どうすることもできなかった。



このため、清朝ではこれら朝鮮人農民を領民と認め課税することにした。清朝の招墾局では朝鮮農民を募集し、食料を与えて開墾させるようになったので、さらに多くの朝鮮農民がこの地域に入った。



間島問題
朝鮮王朝実録によれば、太祖李成桂の時代に鴨緑江と豆満江(中国名、図們江)を国界としたとされる。一方、朝鮮では豆満江北方の土門江(松花江支流)こそ中朝国境であると主張し、中国と朝鮮は国境線画定のために何度も現地で会談を行った。1885年には中国がこの主張を認めたこともあった。日清戦争で中国が敗北し、中国の勢力が弱まると、朝鮮は1903年間島管理使を任命して現地に派遣した。このため間島問題は中朝間の国境問題に発展した。



間島協約

日露戦争後、朝鮮を保護国として外交権を握った日本も当初、朝鮮政府の主張を継承し、間島に警官派出所を設置し、朝鮮人に対する中国政府の裁判権や課税権を認めない方針を採った。これに反発した中国は奉天(瀋陽)から一個連隊を間島に移駐させるなど強硬な態度を見せた。1909年(明治42年)9月4日、日本と中国の外交交渉の結果、日本は中国における他の権益を譲歩させるため中国の間島領有を認める「満州及び間島に関する日清協約」(間島協約)を締結し、間島問題はようやく解決された。外交権の無かった韓国はこの協約に抗議することはできなかった。ただ、その後も朝鮮人農民の間島移住は続いた。









ちなみに、同胞(朝鮮族)も、「清の領土」と言ってますね。









朝鮮族近現代史 間島 (朝鮮族ネット) 一部抜粋


"間島"と"墾土"



1883年、清と朝鮮両国の国境が"吉林朝鮮商民貿易地方章程"によって開放され、延辺地区に対する封禁令が解除され、越墾局が設置された。そして多くの朝鮮農民たちが延辺に入って来て、荒地を開墾するようになった。(中略)



"中朝両国間に間島問題を巡って争いが生じたのは、1903年<間島視察使>に任命された李範允が中国側の越墾局に<間島>は<土地が50結にもなるが、川の北側はもとより朝鮮人たちが開墾、耕作したのだから、朝鮮の領土だ>と主張してからであった。(中略)



 <間島>は主に北朝鮮の鐘城の農民が名付けた称号で、中国の越墾局に租税を払いながら耕作したが、毎年の租税総額は800両余りに達し、越墾局では徴収した租税を越墾事務費として使った。"



日本が操作した"間島問題"



(中略)1905年、日露戦争で勝利した日本は、遼東半島と南満鉄道及びその附属地を占領しただけでなく、彼らの既定の "大陸侵略方針"を実現するために延辺侵略を正式に確定した。



そして李範允が提起して来た"間島"が朝鮮の領土という言い分を繰り返しながらも朝鮮を保護国とし、朝鮮を代理して間島問題を解決すると言い(中略)"



その後、日本は恣意的に間島を北都所、会寧間島、鐘城間島、茂山間島と行政区域を分け、4区域には"都社長"を任命、その管轄下に41の社、290の村を置いて社長、村長を任命し、新興坪、局子街など14ケ所には日本憲兵隊分遣所を設置し、憲兵と朝鮮警察を配置した。



結局、日本は歴史文献と実地調査を通じて"間島は朝鮮に属しない"と言うことを漠然と知りながらも、豆満江辺界問題を利用して彼らの大陸侵略方針を実現するために、延辺に侵入したのだ。朝鮮の人を保護するという口実で延辺に入って来た日本は、その後、朝鮮族を弾圧し略奪する野獣の群れと化した。







































































1712年

中国と朝鮮両国が鴨緑江と土門江(豆満江)を国境とすることで合意。

1859年

琿春協領を副都統協領に昇格。

1869年

未曽有の飢饉によって朝鮮人が延辺に流入。

1875年

清が西間島の封禁政策を廃止。

1881年

清が間島で封禁政策を廃止、朝鮮に対して間島地域朝鮮人の送還を要求する。

1882年

清が入籍令を発布し朝鮮人の帰化を勧誘。

1883年

朝鮮が豆満江封禁令を廃止。

集安に密偵として入った酒匂景信が広開土王碑の拓本を日本に持ち帰る。


1884年

朝鮮の鐘城から開山屯を経て龍井に至る路線が敷かれる。

吉林省が朝鮮と「商民貿易地方章程」を結び、商埠地を指定し、貿易を自由化する。


1885年

乙酉談判。

清が封禁令を全廃し越墾局を設け、朝鮮移民による開墾を奨励する。


1887年

丁亥談判。

1900年

義和団事件を契機としてロシアが満州を占領。ロシア軍が局子街に侵入する。

中国人は吉林方面に避難したため朝鮮移民が急増。


1902年

朝鮮政府が李範允を北墾島管理使に任命。李範允は私兵団を作り朝鮮移民を保護する。

1906年

朝鮮人による中国で初の近代的な学校である瑞甸書塾を龍井に設立。

1907年

8月19日、日本軍が龍井に進駐、龍井村に朝鮮統監府間島派出所を設置。

瑞甸書塾は創建8ヶ月にして日本の圧力を受け廃止。


1908年

4月27日、瑞甸書塾の金躍淵が明東書塾を開く(のち三年制の中学校に発展)。

7月1日、日本は瑞甸書塾のあった場所に間島普通学校を開校。昌東学校・光成学校も開設。


1909年

9月4日、龍井で間島協約が結ばれる。

(日本は清の間島領有権を認める一方、朝鮮人の間島での居住権、間島総領事館を龍井に開設して警察官を駐在させる権利、吉林と朝鮮の会寧を結ぶ鉄道の敷設権を手に入れる。)



10月26日、安重根がハンルピン駅で伊藤博文を暗殺。

11月1日、日本が朝鮮統監府間島派出所を廃止。

11月2日、日本が間島日本総領事館を龍井に設置。鈴木要太郎が代理総領事。



 



「間島協約」が無効になっても、韓国(北朝鮮)の領土にはなりそうもありませんね。
















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